2013.6.13

Tremendous Trifles

有川雄二郎

 

ちっちゃな問題の続きです。

 

②いわゆる「ご理解とご協力をお願いいたします」に内在する不正と虚偽について。

 

「本日は雪のため、徐行運転を致しております。10分から20分の遅れが見込まれております。どうか皆様のご理解とご協力をお願いいたします。」、「3両目は女性専用車両となっています。男性の方はご遠慮願います。ご理解とご協力をお願いいたします。」とかいうアナウンスで、駅のホームでよく聞かれる。10年前にはなかった言い回しである。一般の店でも、「一列にお並びの上、間隔を詰合せてお待ちください。どうかご理解とご協力をお願いいたします。」とアナウンスもよく聞かれる。
何も問題はないじゃないか? とおっしゃる方が多いかもしれないが、実に浅い考えである。
問題は、まず「理解」という言葉にある。

 

第1に「理解をしろ」ということは、上の者が下に言う言葉である。客に対して使う言葉ではないのだ。たとえば、先生が生徒に、上司が部下に、親が子供に、「いいか、理解できたか」「このくらいのことが理解できなきゃ困るよ」「お母さんの言うこと、理解できるよね」というように使われる。上から下に、かつ理解すべき内容は、絶対的に正しく議論余地はない、理解できないのは、お前の頭が悪いからだという了解がある。
だから、平社員が部長に、「私の言うことが理解できましたか、部長」などと言えば、「ばーか、お前の言うことなんか理解できるわけねーじゃねーかよ」と怒鳴られるのがおちである。まず、いきなり威張られる、この点が感情的に引っかかる表現なのだ。
第2に曖昧さだ。「理解」というからには、理解する対象があるはずである。
ところが、何を理解せよというのか、それがわからない。明晰さが微塵もない、曖昧さがどろっと覆いかぶさっている表現を、また男のくせに、妙に甘ったれた声でアナウンスされると、私は逆上してしまうのだ。
さて、何を理解しろと言おうとしていることを考えてみると、普通に考えられるのは、「アナウンスしている文の意味を理解してほしい」、ということだ。しかし、この日本語の文意は間違え得ようがないほど簡明なことだ。子供でも分かる。そうすると、わざわざお願いをするからには、日本語の理解を、即ち使用言語の理解をお願いしている、ということが考えられる。待っている客には日本人ばかりでなく外国人もいるから、駅員が理解してほしい、と頼むのは理にかなっているおり、あり得るようにも、一見、見える。しかし、つらつら考えるに、これは「日本語を理解してほしい」と日本語を用いて依頼していることになり、日本語が理解できない人にとっては、「理解」を依頼されていること自体が認知できず、また、私のように日本語が理解できる人とへのお願いとすると、お願いされなくともすでに理解できているわけであり、不要な願いである。中国語・朝鮮語などで、「これから日本語でいう事を理解してほしい」とアナウンスしてから本来の日本文を話すべきである。だから、「理解」を「日本語を理解してくれ」という解釈は、「すべてのクレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が言った場合の論理的矛盾と同じように、同じではないかもしれないが、ともかく意味をなさない。
「理解」の意味として、第2番目に考えられるのは、「協力」を要請するに至った理由、原因、因果関係を理解しろ、ということかもしれない。しかし、それらは容易に理解できるものではない。たとえば、「雪のために10~20分列車が遅れる」、その理由はなんなのか、だれか分かりますか。雨だと遅れないのに、雪だとどうして遅れるのか、電車の走行機能のメカニズムは、全く分からない。しかも10~20分の遅れと限定されるが、そうすると時速60kmのスピードの列車が時速50kmに、およそ10km減速することになるとすると、その減速の割合はどのように導かれるのか、全く分からない。
女性専用車を作った理由も同様に理解できない。なぜ男は乗っていけない車両を1両だけ作るのか、分からない。それなら、全部を、たとえば奇数号車両は男専用、偶数車両は女と分けてはいけないのか。また人間のいろいろな属性のうち、女性という「性別」のみを取り上げて弱者保護をするのか、その理由も理解できない。10歳以下専用者、75歳以上専用車、鬱気質専用車、私のような低年収専用車(隔離しても根本的には救われないかもしれないが、周囲が貧乏人ばかりだと、何かほっとする)、私のような加齢臭者専用車(いつも、誰かに、「臭い、臭い」と騒がれるのではないかと、びくびくして乗っているのだ)、私のような独り言癖専用車(車内はかなりうるさくなると思われるが)などが作られず、女性という大雑把なクラスわけの属性のみ、弱者保護をするのか、「理解せよ」と言われても、その理由はわからない。
3番目に考えられるのは、自分のせいでもないのに、こんな弁解じみた放送をしなければならない駅員の立場を理解してくれ、という意味かもしれない。これもおかしい。つまり、「理解」だけでなく、「協力」をも求めているのは大問題で、実に甘ったれた考えだと、駅員氏には忠告をしておく
そもそも人生上で、「理解」と「協力」の両方は得られることはないのだ。人生の出来事は、とても「理解」はできないが、仕方なくうわべは「協力」をする、という事柄で満ち満ちている。クライアントのクレームも、上司の指示も、妻の言い分も、部下の反抗も、銀行の融資にも、店員の応対も、恋愛の進行も、そのほか私の身の回りに起きるほとんどの出来事では、相手方の理屈は滅茶苦茶で、あくなきエゴと欲望と痴愚の塊で、まともな人間の言うこととはとても思えないことばかりなのである。そんなことは、「理解」など一切できない。しかし、これは人生が矛盾に満ちている証左でもあるのだが、やらないともっと悪いことが我が身に降りかかり、当方がとても苦しい立場に追い込まれることになる。つまり、経験と学習により、「協力」をしないと私がひどい目に合うことが分かっているので、「協力」するのだ。
もちろん人生では、共感や同情を呼び、相手の立場、心情を十分に「理解」でき、現に「理解」している出来事も、まれにある。しかしながら、「理解」した場合、我々は「協力」はしないのだ。アフリカの難民にも、酔っ払いに絡まれている焼き鳥屋のおばさんにも、マッチ売りの少女にも、我々は十分シンパシーを持ち、「理解」はする。しかし、かわいそうな人たちに「理解」をしてあげると、次に自分の心の優しさにあらためて感心してしまい、それだけで十分という心持になり、それに、なんだか疲れても出てきて、そこに行って助けるとか、お金を出すとか、相手に「協力」をすることは、まず、ありえなくなる。
ただでさえ、「理解」と「協力」の両方を得るということは非常に困難なのに、いきなり、見も知らない人たちに「理解」と「協力」を要求する駅員氏は、非常に甘ったれているのだ。

 

しかし、私が聞いたなかで、一番、衝撃的な「理解と協力」の要求は、鉄道でなく飛行機である。
ある日、伊丹空港ロビーで松山行きの飛行機を待っていたら、航空会社のアナウンスがあり、「次の松山行き312便は、故障により、機内のトイレの水が出ませんので、使用できません。皆様、どうか、ご理解とご協力をお願いします」と、改札カウンターで男性が携帯マイクで、少し得意げに、我々呼び掛けてきた。
衝撃のあまり、瞬時に数々の疑問がわいてきた。「理解」面から言うと、まずどこの水が出ないのか、という問題があり、手洗いの水が出ない程度であれば、私はトイレでは特に手洗いはしないことにしているので、出なくて差支えはない。また便器の水が出ないということであっても、大については意見が分かれることはあるかも知れないが、小なら問題はないではないか。小も禁ずるというのは、あまりにお上品ぶって偽善的ではないのか。また、「協力」面から考察するに、ここでも、曖昧さがある。多分、係員は安易に、先にトイレに行ってくれ、それで済むはず、と考えているのかも知れないが、それですまない。たとえば、緊張性尿意とか神経性下痢とかいう場合だ。その場合、当事者はどのようにトイレを使わない「協力」をすればいいのだ。まさか、想像に絶することを客に期待しているのではないのか?
大小の疑問が噴出して、根本的なことを考えるのを忘れてしまった。大体、航空会社としては、この大失態について、最初に謝罪をすべきである。それから、水まわりの故障をも2時間程度はある空港での駐機時間内に直せないという理由を説明すべきであり、係員が良心的であれば、「自分たちはこんな低い技術力しか持っていないが、それで良ければ私たちの飛行機に乗ってください」と警告をすべきではないか。
係員は、「申し訳ありません」と謝る代わりに「理解と協力をお願いします」という言葉を用いているのだ。

 

そこへ行くと東日本JRは、大雪のせいで電車が遅れても、「大変申し訳ありません。電車は10分ほど遅れております。」と意外に潔いのだ。

 

以上の私の論旨に、賛同者が少ないことはわかっている。「理解と協力」は、社会をあたたかく結ぶ金の鎖だ、というようなことを、言われるのだろう。しかし、それは事実ではない。「理解と協力」は不正で、虚偽にまみれた表現なのだ。
私は社員に、「給与を下げ、労働時間を増やすことになりました。どうかご理解とご協力をお願いします」と言ってみようと思う。社員の反応を見れば、それは明らかである。