2010.6.17

Bの問題

有川雄二郎

 

 浅野温子さんの、古事記の一人がたりを聞いた。いろいろなことが頭を巡って、とても感動した。一つは、浅野さんというと、トレンディドラマ(そういえばトレンドという言葉も聞かれなくなった。もう、トレンドなどどうでもいいのかも知れない)というイメージがあって、可愛いだけなのかなと思っていたけれど、語りに、演技に、圧倒的な迫力があるのだ。肝を潰した。
 それと話自体も、いろいろ考えさせる構成だった。コノハナサクヤ姫という美人の妹と、その姉の岩永姫というブスの姉の物語を古事記からとって、脚色している。妹は、いい男のニニギノミコトに見初められ、嫁入りするのだが、姉はブスであることがたたって、嫁の貰い手がない。気立てはすごくよくて、親からも可愛がられているのだが、男が寄り付かない。父は困って、ニニギにコノハナサクヤ姫のおまけとしてあげたのだ。ところが、ニニギは姉の岩永姫があまりに醜いのを見て、家臣に命じて実家に追い返してしまう。性格はあまりに美しいのだが、容貌があまりに醜い岩永姫は、自分に絶望して放浪の旅に出て行ってしまう。
 父親はあまりにむごいニニギに復讐を誓うのだが、これは別の話。また、妹のコノハナサクヤがニニギと情交をすると、一種の共振現象が起きて、遠くにいる岩永姫にコノハナの快感が通じて岩永もまたエクスタシーを感ずるという超常現象が起こる。不思議な話だが、ありそうな気がする。女だから。しかし、それも別の話。
 また、浅野さんは、コノハナサクヤがニニギに抱かれてエクスシーを感ずる状態の表現を、「暗い海から、波をくぐって幾百匹もの大きな魚が、金のうろこを輝かしながら、次から次へと天に昇っていく。私はその巨大な魚のひれにつかまって、天を目指して舞い上がっていく」、とアクションを交えて表現していた。私は、その時の女性がどんな気持ちなのかわからないのだが、何だか女にはありそうな話である。(男の気持ちなら分かる、「ラムネのふたのビー玉をすぽんと抜いた感じ」。それだけの、あっけない、つまらぬことです)そして、問題は観衆である。浅野ばなしの観衆は8割が女性で、多くが50歳~60歳くらいの熟年世代。このエクスタシーのくだりを、食い入るように浅野さんを凝視して、話を聞いているのだ。そして、みな、「うん、うん」と小刻みにうなづいている。80歳くらいのおばあさんがいて、目をうるませ、唇を震わせ、過ぎた遠い記憶を反芻しているようである。小学生の女の子も、「そうか、そうなるのか、私」と納得をしていた。演者も観客も「エクスタシー」という一点で結ばれて、強い連帯感がまきあがっていた。
 私は、これじゃ、とても女にはかなわないと思った。また、いざという時の、とっておきのパジャマに、鯉か金魚の滝登りの絵柄のものを買っておこうと考えた。

 

 しかしそれも別の話で、問題はブスについてである。岩永姫のように、どんなに気立てがよくても、頭がよくても、ブスというだけで毛嫌いされてしまうのだ。こんな不条理な話はないのだ。ブスというのは、本人の責任ではない。私の会社にいた女子社員が述懐して、「私の母親から、『ごめんね、そんな顔に産んでしまって』と謝られたことがある」と言っていたが、娘が母から詫びられるというのも悲しい話だ。まったく本人に責めはないのに、男たちから誘いも受けず、異性と情けもかわすこともまれか絶無で、二十歳、二十三歳といった普通ならきらきらと花咲くころも、なすびの無駄花か、または便所の裏に咲くどくだみの花という感。あげくに、「ブスは笑うな」、「ブスに意見を聞いていない」など冷酷なこと言われて仕方なくさびしく微苦笑に紛らしても、そこがまた悲しいのだが、ふざけた顔にしか見えず、所詮悲しい顔ができないのだ。この差別、不条理をどうするのだ。基地について、沖縄県民への差別が問題とされているが、沖縄県民は引越せば基地の被害からは遠ざかる。だが、ブスは引越してもブスだ。また、アメリカに行けばなんとかなるかというと、ブスに国境はないと思う。また、よく、「美人は飽きるけど、ブスには飽きが来ない」と言って慰める人がいるが、確かに飽きはこないが、それは常に新鮮な驚きがブスにはあるということで、慰めになってないのである。

 

 ここまで書いていて、どうも、「ブス」という言葉がいけないことに気がついた。何か、茶髪の高校生が多発するような、味わいも奥行きもない砂をかむような言葉である。教養が感じられない言葉である。いつからブスというようになったかわからないが、由緒のある言葉とは思えない。
 昔は「醜女(しこめ)」といった。まだこちらのほうが味わいがある。学生のころ、新潮文庫かなんかのフランスの現代小説で『醜女の日記』という本があり、いつか読もうと机の上に置いておいたが、数日間、表紙のタイトルを眺めているうちに、どうせ醜女の考えることである、どんな日記なのか、内容がわかる気がして読まなかった。それはともかく、この「醜女」の語感もなにか決定論的である。救いがない。いろいろ考え、これからは「ブス」の呼称はやめ、「B」と呼ぶ。やや安直ではあるが、和らいだ呼称だ。
 さて、この非差別的なBであるが、日本に一体いくらくらいいるかが問題である。高校時代を思い出してくれたまえ、そこで学年一のB、といえば、これはもう押しも押されぬBであるのだが、1クラスには20人の女子がいて、1学年5クラスとすると女子100人に一人が、いわゆる真正のBといえる。すると日本の総人口から、約65万人日本女性がBであることが、わかる。つまり、B全員を一か所に集めると、島根県または熊本市または大田区ぐらいの人口となる。大変なことである。またこれを、B’(ビーダッシュ)まで範囲を広げ、B’とはクラスで一番のBということだが、その人たちを集めてみるということだが、なんと全国で320万人となる。これは、茨城県を凌駕し、横浜市に迫り、国ではモーリタニア、ウルグアイくらいのいきおいとなる。こんな計算をしているうちに、何だかBを一か所に集めてみたくなってきて、そんな市にいったらすごいだろうな、と想像される。どこを見ても、Bなのだ。そんな街を旅したら、駅に着いた途端、出会うプラットホームを歩く人も、駅員さんも改札掛も、駅前の横断歩道を渡る人も、振り向いて行き先を聞くもタクシーの運転手も、窓から見える通学の女子高生も、チェックインするホテルのフロントも、スーパーで買い物をする主婦も店員も、飲み屋のママも、女子大の生徒も先生も、婦警もみんなBなのだ。想像するにくらくらしてくる。。
 論旨が乱れてきた。私が言いたいのは、この不条理なB差別問題を解決しなければいけないということである。私は、かばい甲斐のない、鳩山のような口先だけのタイプではない。小沢一郎のように、自分の信ずるところを実践するタイプである。私は、B差別問題解決に、自ら進んで身を投げているのだ。SAPでは、社員採用に際して、B枠、B’枠を設け、しかもその数を年々増やしている。不言実行である。今や、ほとんどがBだ。オフィスはBの花盛りである。B特有の、漢方薬のような香りが立ち込めている。嘘だと言うなら、来てみりゃいい。