2010.2.10

酒か女か?

有川雄二郎

 

学生の頃見た西部劇で、主演のロバート・レッドフォードが、がんがんと日の照る荒野の真ん中で、やおらポケットからウイスキーのびんを取り出し、ぐいぐいと飲み干し、「女もいいが、酒が一番だ」とつぶやいて、びんを投げ捨てる。その頃の私は「女が一番だ(注①)」と思っていたので、この台詞は新鮮な言葉に感じられた(注①;この間違った信念のため、のちに大変な辛苦を味わうことになるのだが、当時はそう思っていた)。その甘ったれた私ですら、ラッパ飲みにウイスキーを飲むレッドフォードの姿にしびれ、また、「酒が一番だ」との台詞にも、深い感動をおぼえ、男はこうならなければならないと思った。早速マネをすることにして、近所に荒野っぽい所はなかったので、駒沢公園に行き、ファミリー広場の芝生で仁王立ちをし、ウイスキーの角をラッパ飲みした。周囲に若い女性グループや家族連れが何組かいたが、誰も注目をしてくれなかった。当てが外れたのだが、いきがかり上、飲み続け、飲み終わって、「やっぱり酒が一番だ」とつぶやき、つぶやいてしまうとすることがなく、茫然と立っていたら、夏の日を浴び、急に酔いがまわってきた。崩れるように芝生に横たわり、眠ってしまった。目を覚ましたら、顔の周りの芝生がゲロだらけだった。
やはり、アメリカ人の男らしさの表現を、日本ではそのままはとおらないのだと思った。
国情の違いということでしょう。

 

「○○が一番」というときの○○は、どんなときでも自分を受け入れてくれ、世間のつらい仕打ちを忘れることができるものだろう。60過ぎの上品な婦人が、猫をあやしながら、「猫ぶんぶん、猫ぶんぶん。やっぱろ猫がいちばん」と一人言を言っているのを聞いたことがあるが、気分が出ていた情景だった。

 

さて若年の私は、女性が全てを救ってくれるものと思い込んでいたが、三十歳をいくつか過ぎた頃から、女というものは単にやさしい肢体をしているだけではなく、その肢体の上に頭があって、その中にはどす黒い猜疑心や、実にけちくさい物欲、死ぬまで執念を燃やす復讐心などが詰まっているということが分かってきた。そして、そういうよこしまな頭部は要らない、肢体のみを取るというような、いいとこどりというか勝手なことは女性が許さないということも分かってきた。つまり女体には、女性がついてくるのである。そこが問題なのだ。

 

この問題はもう三十年も抱えているけれど、解決はしていない。解決はしていないのですが、年を経て、そもそも女体のほうも関心が薄れ、だんだんどうでも良くなってきて、つまり女は一番の座から滑り落ちて久しいのです。

 

今は、何が一番なのか?と自問するに、 山上憶良や世間一般はこどもが一番というようであり、私にもこども(3人)もいるけれど、これは生まれて以来いっさい関心がなかった。これからもないだろう。酒はもとより好きでない。読書? 昔は本の虫と言われたこともあったけれど、今では2,3ページ読むと寝てしまう。音楽もレコードCDは1000枚以上あるけれど、新しいものは一切受付けない、若い頃聞いたものを繰り返し聞くことしかできなくなってしまっている。それも退行現象は烈しく、2,3年前までの70年代フォーク一本やりから、今は童謡唱歌に限られてきた。幼稚化しているのだろうか。食べることは、残された最後の本能だが、味道楽・美食家とはほど遠い。好むのは、風呂のなかで食べるカップヌードルと布団のなかで食べる最中アイス、味というより、だれきった雰囲気がいいのだ。金は大好きだが、ほっとするほどあったためしがない。「やっぱり金が一番だよ」といえるほどの金を持つ経験はしないままに、私は死んでいくのだろうか。
こうしてみると私にとって一番は、ない。諸行無為、諸法寂滅の境地は、こういうことなのだろうか? 来世は近い。