2008.1.7

謹賀新年

有川雄二郎

 

 私のようにまずい人生であっても、年老いてそれなりの経験をしてくると、阿呆の青年時に較べ、思考と感覚の変動の閾値がせばまり、観念が固着し、判断の柔軟性が失われ、万象の定義が終了し、まだるっこしい説明はやめると、つまりはすべて先が見えて、何があっても驚きもせず、また面白くもなくなる年頃となりました。
 新聞は見出しだけで予想が出来て記事は読まず、社員の話を聞いても結論は分かっているので最後まで言わせず、やや魅力的な異性に出会っても暗い結末が浮かび胸も躍らず、周囲との人間関係がうまく行かなくとも「どうせ嫌われものよ」と悪く落ち着き、これはすなわち、年寄りの頑固さ、狷介さで精神の退化です。
 しかしながら、こういう精神的な状況は、見方を変えれば、若い頃、浮動していた情念が、偏頗とは言え不動の世界観となり、一個の人格の完成に近づいたと言えるわけです。
人間の生を享け、へたな人生を送りながらも、宇宙に対する独特の観念を持つことは、これはもう、神または仏の願いたもうたことであり、おめでたいことであります。
 問題なのは、年老いて、内なる世界観が打ち立てられ、本人は満足か、といえばそうでもなく、飽き飽きしながら、面白くもない残照の生を貪るのみ。
 それはまた良くないので、近頃、未知なる物に心を時めかせ、しなやかな精神を持っていた少年の頃に戻りたく、思考を「未来」に集中させ、未知なる世界を求めることにしました。すると、この年齢で新たな未来というと「往生」の他に無く、往生というと自然、心に浮かぶのは『辞世の歌』、『末期の水』、『死装束』の往生3点セット。これらを如何にすべきか、これは考えてみれば大変なことであり、最後の、やり直しの聞かない一回勝負で、言葉と衣食に、つみ多くして生きてきた自らの人生表現を托すのです。
 熟考し思案をめぐらせ、結局、末期の水は「アルカリイオン水」(のど越しに余韻あり。体にも良いらしい)に仮に決め、死装束は一張羅のディオールのセーター(赤)と洋服の青山で買った黒の「美脚パンツ」と華やかに一応決め、そこで辞世の歌、これが難しい。
 内匠頭の「風誘う花よりもなお我はまた 春の名残をいかにとはせむ」や太宰の「池の水は濁りに濁りて 藤なみの影さえ見えず 雨降りやまず」、みたいな大向こうを唸らせる歌を作りたく、しかし人生がまずいとできる辞世もまずく、「母よりも兄よりもなお親しみし あの犬猫虫らに彼岸であわむ」、と、これではなかなか死ねない、良い辞世が出来たらいつ死んでもいい、と思いを新たにした新年であります。皆さまもよいお年を。