2011.2.10

積善

有川雄二郎

 

後生の無事を願って、何かしら善行に励まなくてならないと思う年頃になってきた。今更遅いのかもしれないが、それでも、この年になりもう地獄は嫌だ。もっとも天国や極楽というのはどういうところかイメージもわかず、しかし地獄は何か身近な存在のように感じられ、時折、地獄図絵などをしげしげと眺めて研究を始めているのだが、地獄は閻魔大王と鬼と罪人、3種類しか登場してこないフラットな社会である。閻魔大王は、何もそんな怖い顔をすることないじゃないか、相手は恐れ入っているのだから、と注意をしてあげたくなるのだが、所詮、あのタイプは人の言うことを聞こうとしないのだ。鬼は顔つきが旧妻に似た獰猛奇怪な形相でボディビルコンテストのように筋骨隆々としている。問題は鬼にに対峙する罪人で、地獄三人種の中ではいちばん気のよわそうな顔つきをしている。前世で悪事の限りを尽くしたとは思えぬほど弱々しくまた意気地がない様子。とても鬼一匹にでもかなうすべもないのに、あまつさえ、赤・黄・緑・黒など数匹に取り囲まれ、なぶられ、肢体を千切られ、目玉をくりぬかれ、胴体に金棒をぶち抜かれ、罪人が無力で反抗できないことをいいことに、鬼は散々なことをしているのだ。悪い奴らだ。不思議なことに、罪人はあまり苦しむ様子も見えず、もがいたり暴れたりもしないで、ただ目を細めて無抵抗、鬼のなすがままに、あきらめというより、恍惚、または悟ったような状態の面相を呈し、薄笑いすらしているかにも見え、実に奇妙な構図に見える。しかし、責め抜かれると、人間は恍惚状態になるものなのだ。思い出したがこの図はまぎれもなく20年前、私が旧妻から罵倒折檻を受けていた時の様子で、私はただただ、頭を下げ、時に力ない笑みを浮かべ、ストーブ投げなどの暴力に甘んじ反抗は一切考えず、あの頃、私はまさに地獄図絵の罪人のようだったのだ。さらに比較分析をしてみるに、地獄の鬼は淡々と肉体的暴力をふるっているだけで、金切り声、罵倒、呪い、脅迫などことばの攻撃を罪人にはしていない様子であるが、旧妻は暴力と罵倒が並行し、その点は旧妻より鬼の方がやさしいと言える。また、時局柄でいうと、閻魔仙谷や諸鬼・菅、枝野、福山各氏など民主の鬼になぶられている小沢氏との関係にもこの構図は通ずるものがあり、小沢氏も最近、目が澄んできた。

 

いずれにせよ地獄は怖い、近頃、気をつけて善行を積むようにしている。ただ、私が小人ゆえに、たまに善を施すと、吹聴し、自慢し、なさざる者をなじり、怒鳴り、その思い上がりの罪には、私がなした微善など吹っ飛んでしまうのだ。例えば、私は月に1,2回、250円くらいの安い弁当を7,8個買い、近所のホームレスの人にあげているのだが、夜なので誰も見ていなく、ホームレスの人もすでに段ボールの中で眠っている様子で、あえて起こすこともないので弁当を段ボールのわきに置いていくのだが、もちろん当人からの感謝の言葉はない。道を歩く人も私の善行に気がつかず、気がついても同類がやり取りしている位に認識で、つまり褒めてくれる人はいない、これが大変不満なのである。仕方がない、翌日会社で社員に褒めてもらおうと思って、仔細を語るのだが、彼らの反応は、「あたし、お金をあげたほうが喜ばれると思う、ねえ、そうだよね」、「250円の弁当なんてあるんですか。なんでそんな安いのを買うんですか? 社長はそれ、食べた事あるんですか?」、「月に1回は少ない。毎日あげなきゃ、だって社長は毎日3回ご飯食べているんでしょ?」、「あたしだって、猫ちゃんに毎日ご飯あげてるも~ん」とかで、話の論点を理解できず、的外れのばかな感想しか言わない。社員は、どこの社員でも同じだろうが、素直に社長の言動に驚き感動するという能力がない。だからいつまでたっても社員なのだ。

 

そこで、いっそう善行をつむことにしました。近々、ホームページに発表しますが、小社は3月26日に、紀伊・那智大社と長崎・大浦天主堂の2か所で、同時に、無料の文化イベントを開催します。この無料という点が今回の論点の中心となるので、注目をしてくれたまえ。無料ということは、偉いと思う。思わない人もいるかもしれませんが、私は偉いと思う。さらに2か所同時、というのがすごい善行だと思う。
まあ、実を言えば、これは何も善意とか、公共心とか、ボランティアとかそんなことから始まったわけではなく、ま、あてが外れた、とか、計算違い、思い違い、とか、行きがかり上とか、いろんなこと事があって、無料になりました。ひとことでいえば、破れかぶれで、ということになりますが、善行をすると、どうも、損した気分になるのですね。不思議ですね。