2014.7.12

生きていると、

有川雄二郎
生きていると、怒りがこみあげてくることがある。太宰治も、「怒るべきところで怒らなければ、人間とは言えません」と言っている。しかし怒りにまかせて逆上をし、暴言を吐いたり、仕返しをしたりするのは良くないのだ。相手も自分も不快になり、しこりが残る。だから怒りたくなっても我慢し、そのようなシチュエーションは、神様が私に与えてくれたテストの場であり、心を平静に保つ訓練の場であるのだから、つまり修行だと思って、こみ上げる怒りを抑えなさい、というようなことが偉い僧侶の著書にあって、なるほどと手を打ち、いろいろの不条理もこれすなわち修行と、思い定めることにした。怒りの場を修行の場に変えて考えるようなことは、たしか、私の嫌いな相田みつをもそんなことを言っていて、「他人のものさし、自分のものさし、それぞれ寸法がちがうんだな」などともっともらしく格言集にあり、ただ根本的に違うのは、彼はこの修行を楽しげに行っていると言い、私は非常に腹を立てながら修行をしているという点にある。そこが私が彼を受け入れぬところだ。
私が腹を立てるのは、筋の通らぬことに対してである。ま、それが些細なことにしろ、理知的でロジカルでないことがまかり通るのはおかしいし(大げさに言えば不正である)、愚かしい人間の言動が社会から球団を受けずに、大手をふるってまかり通るのは「日本の劣化」の証左であり、本来なら私は見過ごしをしないで、やむに已まれぬ思いで破邪顕正の剣を払うべきところなのだ。しかし、修行のため、菩薩のような微苦笑を口元にたたえ、無辺の雅量を示せるようになりたくて、私は修行に励む。常在是修行場、修行をするにあえて深山清泉に赴かんや、道場は汚泥陋屋にあり、一挙一動作即修行と看破した。
そんなことで、私には修行の場は多く、家庭も会社も業火に包まれた試練の空間と化して、毒蛇あり邪鬼あり魑魅魍魎が跋扈し、恰好な修行の場と言えるのだが、この修行場は、もう数十年続けてきて新鮮味がない。そこで、最近、愛用している心のトレーニングセンターとしては、①薬局、②カード会社(電話)、③クリーニング屋(店頭)の3か所がある。

①薬局での修行
薬局には、市販の薬屋と、医師の処方箋の薬をくれる調剤薬局と2種あるが、どちらも修行にはうってつけである。
まず医家の処方箋をもっていく調剤薬局のほうから修行を始める。店には入ると真っ先に、白衣の薬剤師が「保険証を見せてください」と言う。「医者で見せましたよ」というと「うちは別の医療機関ですから。保険証をお見せください」と入国管理官のような顔をして提示を求める。
しかし、日本は皆保険制度が施行され、かつ私はどう見ても日本人であるから被保険者であることは容易に推認でき、そのうえ処方箋には保険証番号が記入されており、保険証の再提示は意味がないのだ。しかも薬剤師は医家とちがって自分で保険証の番号を控えるようなことはしない。また、仮に私が偽被保険者としても、罰せられるのは私で、注意を受けるのは医家で、薬剤師は私から薬価の3割を現金で徴収、7割を保険協会(?)からできることに変わりはない。それらの事実から勘案するに、保険証の提示は被保険者の真偽を確かめるためではなく、また、料金のとりっぱぐれを防ぐためではなく、ただ、薬剤師の権威を見せつけ、できればこの職業に対する尊敬心を得ようという欲望を満足させるためだというのが、正当な認定だろう。
しかし、これに文句を言ってはならない。これは修業の序の口。推認、認定は棚上げにし、腹に力を込めてぐっとこらえ、菩薩のような微笑みをたたえて保険証を出す。
く。
修行のステージ2は猫なで声のにせ気遣い。薬を渡すとき、特に、女薬剤師に良く見かける、過剰心配。ナイチンゲールもどき。「あついでしょう、おばあちゃん。熱中症に気を付けましょうねえ、いっぱい水を飲んでね。クーラーだってちゃんとつけるのよ。知らない間に熱中症になることだってあるんだから。あら、少し太ったの。それは良かったじゃない? ご飯がおいしく食べられたらそれが一番健康のもと。食欲はある? あー、良かった、良かった。安心した」などと、自分の親など構いもせぬくせに、知らない婆さんに眉をひそめての心配顔、満面笑みを浮かべる安堵顔。それらを交互に繰り返しての一問一答。私も、昔は元妻から、今では社員や取引先から「有川は誠意がない」という批判をたびたび受けてきたが、その私が、これは参りました、というほどの、歯の浮くような、背筋が寒くなるような、鳥肌が立つような、耳がこそぼったくなるような、胸が締め付けられるような、いやーなな気持ちになる。「悪よりわるいもの、それは偽善」と教えたくなる。不思議と自分が歯が浮く話をしても、これはなんともない。が、他人が歯が浮く話をするのはたまらない。たまらないのを耐える、これが修行なのだ。女薬剤師、婆さんが終われば、次には爺さんで、これは爺さんのほうもしつこく、「どうも最近目がかすんで、かすんで。こないだもお茶かと思って湯呑を飲んだら、これがジュースで甘いのなんのって….」、世間話ともいえない、ただ人恋しさに愚にもつかない言葉を並べてつきまとうのを、いといもせず、「あ、そう。ああ、大変でしたね」といつまでも相槌を打ち続け、これが終わらない。だから、いつまでも私の薬を持って来てくれない。自衛上、大きく咳払いをし、また突然立ち上がったり、屈伸運動を始めて薬剤師の注意を喚起し、彼女がやっと気づいて、私の薬を持ってくる。
修行はこれでは終わらない。こからまた、修行の第3ステージ。
それは薬剤師の薬の説明。これは、必要なことだ。薬の説明をきちんと聞くことは、患者の義務だし、薬剤師の義務でもある。
説明時間は薬剤師により、3分から5分。短いようだがつらい。「コニール、このお薬は血圧を下げる働きをしますね。1日1回1錠。食後に服用してください。グレープフルーツなど血圧を下げる食べ物を食べると、血圧が下がり過ぎてしまうことがあります。そうすると立ちくらみがあったりしますから、気を付けてくださいね。」大体このようなことを、6種の薬について、それぞれに聞かされる。大事なことだ。聞き漏らしがあるといけないから、2回聞いてもいい。また、自分でもそらでいえるように、3回聞いても悪くない。しかし、同じことを6回聞くとなると話は別だ。15回聞くとなると、もっと話は別だ。しかし、私は10年間にわたって毎月1回、都合120回聞いているのだ。

薬剤師が話しているあいだ、じっと聞いていなければならない。120回目の説明に際しても、まるで初めて聞いた時のように、私はじっとうなだれて聞く。あらためて言う事もないかもしれないが、私が薬局に来た唯一の目的は薬を入手することのみであり、而してその薬は彼の手中にある。目の前にある。私は奪い取ってでもいいから早く入手をして家に帰りたい。しかし、1回目から量ると延べ10時間は聞かされている薬の説明を、また再び聞かないと、薬は渡してくれない。説明の内容は、4回目から暗記できている。教会の牧師が説教を垂れるように、交番の巡査が不良少年に説諭を与えるように、教習所の意地悪教師が自動車と自転車の違いをくどくどと説明するように、薬剤師は説明をする。この無意味な時間。この、苛立ち、苦痛は言いようのないものだ。とはいえ、そこが修行である。
私もある程度は社会性を持ち合わせているので、薬剤師の説明10回目までは、まるで初めて聞いたような顔をして「なーるほど」とうなづき、また「ほうほう」とか相槌を打ち、最後には「飲み忘れをすると、ひどいことが起きますか」などひどくつまらぬ質問もして、薬剤師の顔を立ててきた。が、20回目までには、それも馬鹿馬鹿しくなり、ただ無言で聞き流し、50回目くらいから苦痛を感ずるようになってきた。この非人間的な処遇に勇気ある医師は義侠心を示してくれて、処方箋に「説明不要」と書いてくれ、アンダーラインを2本引いていただき、これで安心、と思ったものだが、薬剤師は説明という神から与えられた権利を簡単に放棄するはずもなく、彼らはそんなものは無視をして、説明を強行されてしまった。神の意に従い、私は121回位目のコニールの説明を、歯を食いしばり、ただ苦痛をしのび、修行を続ける。
しかしながらこなようなつらい修行を続けていると、雑念もわき、恐れながら、薬剤師という存在に疑問がわいてくる、そもそもいったい何故彼らは白い上っ張りを着ているのだろうか、高校の化学の先生は白い上っ張りを着てたが、あれは薬品をこぼしたりするからだろう。給食のおばさんも着ていたが、あれは汁をこぼしたりするからだろう。薬剤師の職場環境は簡潔整然とし、その作業内容はシンプルそのもの、みそ汁をひっくり返すような恐れはまったくない。実用には関係なく、権威をつけるために着ているのか、聞いてみたいものだ。作業内容でいえば、昔の薬剤師は原材料を乳鉢に入れて、すりこ木でつぶして、粉末を紙に置き独特の折り方で変形五角形に包んでくれたものだが、今の薬剤師は製薬会社のプラスチックのシートに密閉されている薬をそのまま渡すだけだ。私でもできるような気がする。怒られるかもしれないが、文字が読め、数が勘定できればできるのではないか、という疑問がわいてくる。せっかく、薬学を学んできたのに、薬剤師は薬局ではたいしてやることもなくなって、その結果、時間もあり、顧客に何かしてあげないと悪いのではないかと思って、白い上っ張りを着、いらざる説明をするのだろうか?

市販の薬局でも修行はできる。それは第一類の薬を買う時だ(第一類の薬は案外多い)。レジに薬を持っていくと、販売員はすぐには売ってくれない。少しお待ちください、とか言って、マイクで「薬剤師の○○さん、○○さん。すぐにレジまでお願いします」と呼び出す。待つこと3分、遅いときには5分、薬剤師がやってくる。市販薬局でも白衣を着ている。そこでまた、薬の説明が始まる。薬剤師の今度の説明は、薬に添付している説明書を読むのだ。まあ、何千種類も薬があり、新薬だけでも毎日出ているにだから、説明書に頼るはのは、薬剤師と言えども仕方がないだろうとおもう。しかし、問題は説明書は日本語で書いてあり、私も読める、という点にある。というか、私でも読めるように、平易な日本語で、そもそも説明書は書いてある。それをいちいち、薬剤師をよびだして読んでもらうのは、無駄以外の何物でもないだろう。どうしても薬局側が音読をしたいのなら、レジが読んだほうが時間の無駄が防げる。薬局も経費が削減できるだろう。そうしないのは、薬剤師のメンツを立てるためだろうが、メンツのために待たされ、聞かされるのは私の修行になるのだ。

少し練れた薬剤師は、「これ飲んだことあります?」と質問し、「はい。もう累計50キログラムくらい飲んでます」と答えると、「それじゃ結構です」と言って、帰る。折角、呼び出しを受け、登場したのにすぐ帰ってしまうのは、まるで、幕内土俵入りのようにあっけないのだが、またそれだけに無駄感はつよい。

かくてマツモトキヨシでも、私は修行をする。
②カード会社(これが一番の難行だ)、及び③クリーニング屋(これは楽な修行である)については次回に回します。