2016.5.17

法律と屁理屈

                                                  有川雄二郎
三島由紀夫は、「刑事訴訟法の緻密で完全なロジックには、バロック音楽のような構成美を感ずる」と何かに書いていた。法律は論理的であり、整合され、法の体系のもと、聊かの矛盾も、破綻もないようにできている、それが法律だ、と思っていた。
ほかの社会科学、経済学や政治学や社会学などの学問が、人間の情念が織り成す混沌とした社会を、何とか解明しようとしても、もとの人間があまりに混沌しているので、分析を試みてもすっきりとした解明ができない。経済学が如何に精密な理論を打ち立てても、ことごとく経済の実態から外れていく。ロジックは現実と合わない。
そこへ行くと、法律は、現実の状態とは別に、人為的にある社会を構成する法律を決めていく。法律が現実を規定して、混沌とした人間社会を切りさばいていく。ことに刑法はすなわち「お上」の裁きだから、権威を高めるために、積極的に緻密に論理構成して矛盾ない体系を作っていく。三島由紀夫の言うように、完璧な、美しいまでの構成になっている、はずと思っていたが、いろいろ考えてみるにそうとも思えない事例が、特に刑法関係でも多く、互いに法律は矛盾していると言わざるを得ない点が多い。
私は、法律を学んだことはなく(三島由紀夫は法学部出身)、素人が何を言うか、との誹りは甘んじて受けるとして、明らかに矛盾していると思われることを、刑法関係の事柄で上げてみたい。

1.法務大臣の死刑執行命令がなされない。
刑事訴訟法475条には、法務大臣は6か月以内に、死刑が決定された被告に死刑の執行命令をしなくてはならないと、明記されている。ところがほとんどの場合、6か月以内にされることはない。死刑反対論をはじめ、この規定には他の行政法と同じように罰則がないとかいろいろな議論はあるが、刑事訴訟法に反していることに変わりはない。時の法務大臣が「死刑命令を出したくないから」で済む話ではない。はっきりと6か月以内と規定されているのだから、そうしなくてはならない。それが嫌なら、法律を変えるのが本筋の話。
また、三審制の中、陪審員や裁判官が情理を尽くして得た結論を、法務大臣が一存で覆していいのだろうか? 最高裁判所の上に、法務大臣は立つつもりなのだろうか?
ともかく法務大臣が法律を破っており、それが放置されているという現実は変わらない。

2.仮釈放  付.改悛の情
こちらは刑法25条に規定がある。服役態度が良かったり、改悛の情が見えたりすると刑務所長などが仮釈放できる。また第66条では、裁判時に、犯罪の情状に酌量すべきものがあるときは、その刑を減軽することができる(半減までできる)。

この制度にも大いに疑問がある。すでに犯した罪を、事後の行為で打ち消す、特にいえば犯罪行為や被害者と何ら関係のない、事後の「改悛の情」「服役態度」が良ければ罰を減ずるということがおかしい。また服役でいえば、服役態度以外の善行、例えば、難民への寄付とか、平和を祈っての写経とかではNGで、もっぱら看守にとって扱いやすい言行のみが、刑罰の軽減の基準となるのは不合理だ。
「改悛の情」もおかしい。「改悛」の定義も定かでなく、改悛の期間、改悛の判定者、改悛の基準、すべて不明である。なんで改悛した、とわかるのか?
私事で恐縮だが、私は子供のころは担任教師に、長じては妻にまたは上司に、数多く改悛を重ねてきたが、今考えても、本当に自分が悪いと思ったようであっても、しかし次の瞬間、だって仕方ないじゃないかよ、という自愛の念も浮かび、しかしこの場はしのがねばならず、とりあえず改悛しておくことが多かった。改悛は伸びたり縮んだりするものであり、あてにならない。
そもそも自己を正当化するというのは生物の本義であり、微生物から霊長たる人間に至るまで、本源的には(母が子を守る以外は)身を挺してまで改悛することはないのである。
さらに根本的に言えば、改悛したら、なぜ、罰を軽くするのかという法理もわからない。本当に改悛したらば、潔く罰を受けようという気になるのが本当の改悛ではないか。
大岡裁きにあったが、子供が火付けなどの重罪を犯したが、子供ゆえになぜそれが重罪にあたるかわからない、そこで数年かけて子供を教育し、自分がしたことが重罪にあたる、あー悪いことをしたと理解させ、本人も腑に落ちて、そののち、死刑に処したという話があったが、こちらの方が本筋のような気がする。
また、小泉八雲の短編「停車場にて」では、捕縛した巡査殺しの犯人を、殺された巡査の未亡人と背負われた遺児に駅頭で対面させる話である。その場を見ようという群衆の中で、警官が遺児に、「この男こそが父親を殺した男だ」と見せつける。遺児は何も言わず、目に涙を溜めながら、しかし男を凝視する。数瞬ののち、遺児の視線に耐えられなくなった犯人は、号泣する。「すいません、坊ちゃん。私はうらみがあってお父様を殺したのではありません。お父様に盗みを見つけられて、怖くなって殺してしまったのです。許してください。
私はこれから死刑になって死にます。死んでお詫びをします。」その場に居合わせた群衆は黙り込み、この厳粛な改悛に、警官も含めて涙を流す、そういう粗筋だ。そこで考えるべきなのは、警官も群衆も、もちろん遺族も、犯人の改悛に、どうしようもない人間のさがに、運命に、愚かさに、深いため息をつくのだが、厳粛にはなっても、だれも犯人を減刑してやれ、とは思わない。それが日本的な伝統ではないだろうか? 海彦と山彦も、ヤマトタケルと戦って敗れたイズモタケルも、忠臣蔵でも同情はあっても、法を破ったものの制裁を軽くすることはない。
 改悛すると許すという思想は、仏教にはある。鬼子母神も悪人正機も蜘蛛の糸も、ともかく、どんなに悪いことをしようが、どこかいいとこあれば許してやろうか、という鷹揚なところが仏教にはある。キリスト教はどうか? 詳しくはわからない。カソリックには懺悔室などがあり、罪を告白するシステムは備えているのだが、よく聞いてみると神父は「神に許しを請いなさい」とは勧めるが、改悛すれば神が許す、とは言っていない。また「最後の審判」などという言葉もあるくらいだから、なかなか簡単には許してもらえそうもない。プロテスタントでも、カルヴァンの予定説では最初から救われる人間と救われない人間が決まっているらしい。救われない人間は、いくら改悛してもNGなのだろう。つまり、改悛すれば罪一等減ずるというのは、そんなに普遍的なしきたりではでないのだ。イスラムも厳格で、執行猶予すらない。
改悛が許されるのは、刑罰に対する社会的な役割の、現代日本独特の思想があると思う。刑罰の目的を法曹関係者に聞くと決まって、「報復(正義)」「社会秩序(安定)」「教育」であるという。最後の「教育」が問題だ。これは犯人を教育しようということであるが、アメリカではそういう目的はない。アメリカの教科書にはretribution(報復)、stability(安定)までは同じだが、最後の一つは犯人の「教育」ではなく、犯人のincapability(無力化)である。犯人が悪いことをできないように、刑務所に入れて隔離するのである。更生を願うわけではないのだ。日本でも、公民権停止、免許剥奪などでは無力化という観念も取り入れられているけれど、刑務所に入れるのは本人の教育のため、ということなのだろうが、これは世界一般とは言えない考え方だ。おそらく、明治以後、「廃仏毀釈」とは反対に、教育・改悛が刑法の思想の中にはいってきたのだろう。

さらにさらに、そもそも刑罰とは既に行ったことに対する制裁であって、過去の出来事を改悛という事後の出来事で帳消しにするのは、過去に不遡及の原則と真っ向から対立し、そもそも法律の概念に反する。つまり俗にいう「ごめん、で済むなら警察はいらない」とか「泥棒をしても返せば済むという問題ではない」過去の罪と罰が、あとからの行為により変更されるのは理に合わない。

3.心神喪失、心神耗弱は罪を減免する
精神病とか泥酔とか一時的な錯乱とか、ともかく、平常人の理性が働かないときは罪を減免してやるという法の制度である。これもおかしい、論点は二つある。
理性とは、大脳生理学的に言うと前頭葉前野にある「意思」「判断」をつかさどるところにある、いわゆる「意識」であって、ここがいかれてれば悪いことをしたとしても仕方がないじゃないか、という理屈である。しかし、ここの理屈は正しくない。最新の脳神経医学の解明によれば、前頭葉前野(意識)からの指令で、運動野が刺激を受けて、手足の筋肉に指示が行き、相手を殴ったりするわけではないのである。意識より先に、運動野が手足に命令をする。
道行く相手がガンをつける、その情報は視神経から大脳に入り運動野に行き、前頭葉前野にも行く。運動野はその情報を受けて、過去の記憶、その時の心身の状態など処々の情報も参照して(0.01秒くらいで)、最終的に右手に指令を出す、「張り倒せ」と。運動野は「生意気じゃねーか、張り倒してやれ」とは思わない。運動野の判断は、他の人間の行為すなわち、胃液を出すとか、ぶらぶらと歩くとか、瞬きするとか、と他のほとんどの人ガンの行為と同じように、意識には上がってこない。無意識の行為である。
運動野は手足に指令するのと同時にその情報を前頭葉前野にも送る。そこで意識は初めて自分の手が殴ろうとしていることを知るわけだが、意識は自分が指示した行為であると解釈する(意識が後、運動野が前なのは、MRIなどで脳内発火の状況を見て、確認できる)。そして「生意気じゃねーか、張り倒してやれ」と意識するのである。つまり意識は、能の各分野が行ったことを後から追いかけて、解説をして意識する、いわばスポークスマンのようなものである。この「意識」は、自分の意志で行ったように錯覚するだけでなく、自分の行為に理屈をつけて正当化しようとする。ちょうど中国外務省の女性スポークマンのように。「あいつが先にガンをつけてきたんだ。だから生意気じゃないかと思い、張り倒したんだ」と主張するのは、運動野ではなく、この「意識」なのだ。
意識がなぜ中国政府スポークスマンのように,自己の行為を一貫とした自分の
意思によるものであり、また正当化するかというと、どうもそうしないと自分という人格が統一のない、バラバラな情意の寄せ集めになってしまうかららしい(中国スポークスマンの役割もそこにあるのかもしれない)。左脳の運動野の病気のために、右手が動かなくなってしまった患者に、医師が「右手を動かしてみてください」という。今までと違って、「意識」の力では動かない(これも錯覚であるが)。そこで「意識」は言う、「疲れてしまって、動かしたくない」、「ほら、今、動かしたよ。あなた見てなかったんでしょ」、「ほかの先生から、動かしてはいけないと言われているの」などなど。「意識」は今まで自分の意志で動かしていた(と錯覚して)と思い込んでいたので、動かすことができないことは認められない。自分の一貫性と正当性を主張するためには、嘘でも言うのだ。患者のなかに、動かない自分の手を、「これは私の手ではありません」とまで言うのだ。
 意識にかかわらず、ほかの脳の部位より指令が発せられているのが人間の現実である。意識がかかわらない自分の行動を、「ふと…」「知らず知らずのうちに…」「気が付いたら…」「我に返ってみると…」「思わず…」「不意に…」「無意識のうちに…」「振り返ってみると…」「覚えがない…」などいろいろな表現をしているが、実は、すべての行動が、「ふと…」なのである。ただ、大部分は、
「気が付く」までの時間が、0.01秒と短いので意識と動作はシンクロしているという錯覚に陥る。
つまり、意識がなくとも(例えば眠っているときでも)、担当する脳の部位が指示をし、呼吸もすれば、寝言も言えば、手足も動かす、記憶もセットする。音響のセットに例えれば、脳の各部分はパワーアンプ、ビデオデッキ、CDプレイヤー、スピーカーシステムなどと同じようにモデュール化された機能であり、視覚野、聴覚野、運動野、長期と短期の記憶、感情、などの脳の諸機能の中で、意識というのはオーディオでいえばデジタル表示のようなもので、機械の状態を表示はしても、機械に命令する役割ではないらしい。
 
 なのに、法律は、行為の真犯人の運動野を不問にして、あてにならない意識が正常に働いていたか、どうかで罰を決める。
 たとえ泥酔しようが、病気か何かで意識が正常に働かなくとも、少なくとも運動野は「殴れ」と右手に命令をしているのだ。運動野が命令しなければ右手は動かない。これは蛙の足の電気実験でも立証されていることだ。運動野は免責にするのが刑法の考えである。
 
後追いのスポークスマン、「意識」を罰するのは、被告を罰せずして弁護士を罰するようなものであり、理に合わないのである。また意識の混濁などの場合、刑を減免するのは真犯人を間違えていると言わざるを得ない。

もう一つ、心神耗弱には矛盾がある。
深酒による心神耗弱は、一般的に刑の減免の理由になるのに、道路交通法だけは飲酒による過失致死などは、刑の減免どころかかえって刑が重くなる。
大体、人身事故を起こさなくとも、飲酒して運転するだけで罰せられる。一般の犯罪では減刑になるのに、車を運転している場合は刑が重くなる。
酒酔い運転をする人は、意識としては「たいして酔ってないから平気だろう」と高をくくって運転するのだが、意識はそう思っても、運動野や視覚野はちゃーんと酔っぱらってしまっていて事故を起こし、そんな時、道交法だけは運動野・視覚野の不届きを罰する。

こうグダグダ述べてきて、何が言いたいのか? 何もない。理屈をこね回すのが好きなのだ。ただそれだけである。