2008.9.10

森山さんを弁ずる

有川雄二郎

 

森山直太朗さんの曲、「生きていることが辛いなら」の歌詞が、ネット上で問題にしている人がいるらしい。「自殺を助長する」という理屈らしいが実にばかばかしい。
 「いっそ小さく死ねばいい」というフレーズが、自殺を勧めて、良くないというのだが、歌詞全体を見ればいい。最初、突き放しているけれど、自殺を勧めるのと反対に、死に迷う人間に対して、生きよ、生きつづけよ、と呼びかけている歌である。後半には「嫌になるまで生きるがいい」とある。誰が聞いたって分かることである。
私はこの詩は、いい詩だと思う。ややお説教臭いところはあるけれど、「生きていること」の不条理さと、「死」の絶対性をベイシックに置いて、自分の存在について考えをめぐらさせる。POPSの詩として、出色のものだと思う。
「明日を信じる、君の瞳が僕を支える」のようなおよそ無内容なもの、また「ナンバーワンよりオンリーワン」的な内容の詩を、ナンバーワンの歌手が歌う偽善的なものが多い、独創性がなく客に媚びるような、昨今のPOPS曲が多いなかで、新鮮かつラジカルな詩である。
そもそも、生きるということに意味を、生物的本能的な生への意志を除いて、肯定的に説明できる人間がいるだろうか。また死という誰にも訪れる、絶対的な虚無の意味を説明できる人間がいるだろうか。不条理な生と死の問題に、切り込んでいった画期的な曲である。御徒町氏と森山氏の溢れる才能と気合があって、この歌を作ったのだろう。才能に対しては、敬意を払えばいいのだ。匿名でいちゃもんをつけるのは、恥ずべきことである。日本も衰退したものだと思う。

 

それから言っておきますが、歌を歌って、または歌を聞いて、人は自殺をしない。私はカラオケにいくと、顔ぶれを見て、若い人が多く、新しい曲でないとしらけるな、という場では「ダンシング・オールナイト」、を歌う。しかし、気の置けない仲間と一緒で、ちょっと古い歌でも歌ってみようかな、と思うときには「昭和枯れすすき」を歌う。デュエット曲である後者の歌詞は、こうである。
「貧しさに負けた」(男。つまり私はため息をつくように歌う)
「いえ、世間に負けた」(女。薄幸そうな、透き通るように色白で、痩せぎす。首筋に静脈の青いラインが浮き出るような女性だと感じが出るのだが、そんな女性はめったにいない)
「この町も追われた、いっそきれいに死のうか」(合唱)、ここはサビだから、絶望して、口を半開き、眉をひそめた表情で歌わなければならない。それはともかく、御徒町氏の詩に較べてほしい。こちらはまったく救いがないのである。しかし、自殺助長だと、誰もこの詩を非難していない。
さらに「力の限り 生きたから未練などないわ、花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき」と続き、歌えば歌うほど、救いがなくなる。
ついでにこのあとの流れを簡単に述べると、「この俺を捨てろ(男)」、ここでも私は感情を込めて絶唱するのであり、それに答えて「なぜ こんなに好きよ(女)」では、私は感に堪えてマイクを握り締め、目をつぶって女の声をしみじみと聞き、やがて目をかっと見開いて、ソファーに座っている後生楽な客をにらめつけながら、「死ぬ時は一緒と、あの日決めたじゃないのよ。世間の風に 冷たさにこみあげる涙、苦しみに耐える 二人は枯れすすき」と一気に叫びながら歌いこむのだ。
私は、絶望しかない、この歌をすでに1000回ぐらい歌っているけれど、一回も死のうとなど考えたことはない。歌い終わると、何か、どうだという気分となって、かえって元気がむくむく湧いてくる。そして水割りをぐいと飲み干す。

 

逆に、自殺をしたい、という衝動がこみ上げてきた頃も、昔あった。そのときはすべての外部の事象が煩わしかった。歌も、音楽も、他人の話も、本を読むのも、テレビの音も、すべて煩わしかった。そんなものが追いかけてこない、外部の事象を遮断した「ねぐら」が欲しかった。そのねぐらが、絶対に、安心できるねぐらが、「死」ではないかという思いがよぎった。自殺を考えているときは、歌を聞く気はしない。歌が耳に入ってきても、意味を成さない。
歌を聞いて死ぬことないのは、誰でも知っているのだ。