2018.4.6

幸福老人

有川雄二郎

先日、高校の同期会があった。「古希を迎えて」と案内状にある通り皆70歳になったことを記念してのことだ。私は出席することにした。何十年ぶりに、15歳から18歳までの同じ学校で、同じ学年で過ごしてきた人たちと会えるのは、やはり嬉しく、憎からず思っていた女子生徒とのことが昨日の事のように思い出されてくる。交わした言葉の内容は覚えていないのだけれども、彼女の声の抑揚、声の質感はまざまざと耳によみがえる。顔のディテイルを完璧に思い出すことは出来ないが、眼差しとか唇の様子とかはありありと浮かんでくるのであった。

男子生徒の方は、当時からあまり同性には関心がなかったので、浮かんでくる顔はそんなには居ないが、それでも二、三の顔が浮かび、一緒に女の家を探りに行ったり、私の勉強部屋でだらだらと話し込んでいた記憶など、ふーっと、50年の埃を払いながら脳の中に芽を出してくる。

同期会の日が近づいてくるにつれ、いわれもない胸騒ぎがしてきた。何せ20年ぶりである(2,3年に1回くらいの割合で、気の合ったものだけの同期会はやっていたそうだが、私はそこには呼ばれなかった)。準備と言っても、服は何を着て行こうか、とこれしかないのだが、これが難しく、どうせほとんどが退職後の年金暮らし、くすんだ色の格子柄のシャツにくたびれた紺の上着、それに毛糸帽なんてかぶっていて、そんなのが大半だろうから、私があまりおしゃれしていっても浮いてしまう。しかし私は年金暮らしでないし(羨ましくはあるが、それが出来ない事情がある)、小なりと言えども会社の社長である、少し見栄もある、また例え半落ちの身の上とはいえ、「あいつ落ちぶれているな」と思われるのも嫌だ、といろいろ迷い悩み、10数年前に買った濃い赤紫のベルサーチの別珍の上着に、黒の毛のズボンと地味にして、イタリアブランドの若者向けのもので、赤と白とオレンジのストロベリー・サンデイのような練り模様のシャツ着ることにした。ネクタイはやめた。

そんなこんなで、期待に胸が膨らんでいったのだが、期日が迫ってくると、なんかまずいことが起こるのではないかという不安が湧いてきた。漠然として不安と、現実的な不安が湧いてきた。

漠然とした不安の方は、昔か、晴れがましい場で、うまくいったためしがないということである。いとこの結婚式の流れの席で、当日の陳腐な式辞の数々に不平を言い、式も含めて、参加者の時・金・心の負担となるような惰性のセレモニーは止めるべきだと心情を述べて、親戚一同から総スカンを喰った。親父の葬式でも、長男であった親父の援助で大学を出してもらった叔父が、私の母とともに親父の欠点をあげつらう二人を強くたしなめて、場が白けたこともあった。私は、由来、「なごやかな集い」になじめないのである。「楽しい団欒」には、終生ミスキャストなのである。また、皆を不快な思いにさせ、私もすさんだ気持ちになるのではないかと、それが漠然とした不安の原因であった。

もう一つの不安は現実的なものである。私の前妻も同じ高校の同級生であって、当日彼女も出席してきて、前にも1回あったが、包丁などを持ち出し罵りながら私を刺したりしないだろうかという不安であり、こちらは具体的な不安であった。その時は、死ぬしかないか、と決めた。

同期会の当日、二つの不安を抱え、悲愴のようなくすぐったいような、なんとも言えない気持ちで、最後まで服のコーディネートに気をもみながら、会場に赴いた。

既に会場には、無慮80人くらいがいた。70歳の集会である。男は禿げ上がったり、醜く太ったり、しわくちゃになり、誰が誰だか見分けがつかず、女も醜く太ったり、しわくちゃになり、誰が誰だか見分けがつかない。

「おー、お前どうしている、変わんねーな」とか、「ひさしぶりーっ、よっこ、元気~?」などと若者のような会話をしてじゃれあっているが、所詮じじい・ばばあである。恥を知れ、と喝を入れたかった。

服装は、男は小ざっぱりとしたジャケットにノーネクタイがほとんどで、年金スタイルや一目で落ちぶれているなと分かる人間はいなかった。期待外れだった。毛糸の帽子はだれもかぶっていなかった。女はくすんだ色のジャケットとスカートで、何か考えがあったのか、着物を着てきた女も二、三人いた。

みんな70歳である。こちらもそんなに威張れたものではないが、醜いものたちの集会であることは間違いない。客の間で、料理を運んでくる黒服の若い女性店員がとてもフレッシュで、はち切れんばかりで、輝いて見えた。

落ち着いてきてよく見ると、昔、美人だった女性はしわくちゃ率が大きく、より年取って老婆のように見え、昔の面影はまったく失われてしまっている。それに反して、ブスだった子はブスな容貌はもとより変わらないが、顔や体にブス特有の弾力性をとどめ、案外若く見えた。これはひとつの発見であった。 そんな「発見」はいかなる感動も叡智も呼び起こさない。そんなことより、私は、若き時分憎からず思い、多少の交際もしていた女性を探すことに努めることにした。

出席の名簿から、該当する二人、NとSの名前を探した。Nはすぐ見つかった、というより隣の席の女性がそうだった。Nはお嬢様育ちで、東京女学館などに入学して、鼻持ちならないところがあったが、それが魅力でもあった。

Nは美人でもブスでもなかったから、年齢相応の面立ちだったが、やせていた。

「おい、ずいぶんやせたじゃないの?」と最初の口火を切ると、「そんなことないわよ、最近太っちゃって、太っちゃって」と反対の事を言う。

そんなことはない、前はもっと肉付きが良かった、と私は断言できるのだ。昔、勇気を出してNを抱き寄せた時、ずしりと来るような腰回りの重量感があって、それもNの魅力の一つであった。それは、今だに私の上腕に改ざんできない肉体の記憶として刻印されており、紛うことのない事実だ。残された私の肉体の記憶により、「確かに、やせた(18歳の時よりは)」と私は主張したが、Nは「確かに、太った(60歳の時より)」と主張し、これはそもそも話がかみ合わない。それより問題なのは、Nは18歳のころ、私と付き合っていたということを、話題にしたくないようなのだ。デートの帰り、私が千駄ヶ谷の家までNを送っていったことを懐かしく語っても、知らない素振りをするのだ。私は、彼女の人生の汚点なのだろうか、それとも、彼女が一緒に思い出を語ったりして気を許すと、よりを戻そうと言いよって来るのを恐れているのだろうか(これはない、絶対に。泥酔しない限りは)?

Nは一方的に近況を語る。

「私、幸せよ。きのう、パリからかえって気ばっかりなの。そう、夫と年に2,3回、海外旅行に行くのよ。彼(じじいを彼というのは止めたまえ)はフランスに行きたがるのね、ルーブルが好きだから。私は昔からハワイが好きでしょ? 両方とも譲らないから、どうしても2回はいかなきゃならないのね。面白いでしょ、私たち?」

まったく面白くない。

「住まい?  青山よ?  もう10年になるかしら、とても便利なのよ、紀伊国屋も近くて美味しいワインが置いてあるし、私、幸せよ」

青山のマンションについて、なにか質問しようかなと思ったけど、不愉快な方向に話が進みそうなのでやめた。

「孫は、男はデザイナー。女の子の方は東京女学館に在学中、私の後輩よ。孫と話す時が、一番幸せなの」

私と話すときは幸せでないのか、とは絡まなかった。また、孫の女の子を紹介してくれとも頼まなかった。そんなことを言えば、アイロニカルなユーモアは理解されずに、パーティーのつまはじき者になることは、70歳の私には自覚ができている。

Nとの会話で違和感を覚えたのは、二言目には出てくる「私、幸せよ」というフレーズである。そりゃあ生活ぶりを聞けば、幸せなのはわかるけど、なぜそれを口に出すのだ。いやがらせか? しかしNは賢くはないが、そんなことをする女ではなかったし、そんな感じで言っているのではない。

ともかく、これ以上話しても発展がないので、Nには見切りをつけて、もう一人のSを探した。

Sは女友達と話していたが、私がびっくりすることを期待しながら、「私、有川だよ。わかる?」と言って中に入った。彼女は何の反応も見せなかった。ひょっとすると表情ぐらいは変えたのかもしれないが、あまりに、顔面に肉が付きすぎていて表情筋の動きが分からないのだ。

しかしSの魅力は容貌よりも(それほど美人ではなかったがキュートな顔立ちをしていた、昔は)、そのウイットに富んだ会話であった。

「あの先生、マザコンなのよ。それで私に甘えてくるのよ」とか「あの子、みんなの気を引きたいのよ。それで家庭が複雑だなんて、不幸ぶってるのよ」とか「有川さんの唯一の弱点は、性格が悪い点ね」とか、鋭く真実を突いてくるのだった。若い頃の私にはすごく新鮮な表現で、頭が切れるように見えた。会ったことはないが、清少納言とかジョルジュ・サンドのような才女だと思った。

Sと私は、青春時代をアラベールとエロイーズのように過ごした。誰もいない放課後の教室で、呑川沿いの道を歩きながら、名曲喫茶でクラシックを聞きながら、会話を楽しみ、プラトニックな交際を続けたものだった。今でこそなりはこんなになってしまったけれど、精神は昔と同じだ。いや、年を取って経験を積み、もっと機智にとんだ会話ができるだろう。と、意気込んで、しゃれた会話を楽しもうと、

「最近、いちばん気になっていることはなーに?」と訊ねた。

私が問われた場合は、「愛する者に会うことなかれ、ということについてだね」(これは『般若心経講話』から盗用)とか「今を生きよ、ということさ」(これはマルクス・アウレリウスから盗用)と答えの用意もしていた。

Sはかったるそうに「そうねえ、昨日の晩、スーパーでもらったおつりが足りなかったような気がするのよ。レシート見て、財布見ても合わない気がする」と答えた。なんだ、それはと思った。が、一見ばかばかしいようなことを、「柳はみどり、花くれない」とかのように、尊い人は言う事がある。私が長いこと合わないうちにSは悟りを開いてしまったのかも知れない。そこで、「では楽しいことは?」と重ねて聞いて、Sの心の扉をたたいた。

「先月、友達と東北旅行したけど、楽しかったな。温泉に入って、世間話をして。ま、幸せだね、今の暮らしは」と答える。どう押しても、エスプリはSの口から出てくることはなかった。

ところで、Sも「幸せ」という言葉を使った。だけど、スーパーのつり銭が気になっているようでは、あまり幸せでもないような気がする。そんなことより聞いてみると、夫とは40代で離婚して、後は子供と二人暮らし。私立中学の教師をしていたが、今でも、代用で時々教えているという。

「いろいろあったけど、ま、幸せよね、私は。時々おいしいものも食べれるし、大きな病気もしてないし、幸せよ」、とSは幸せを連発する。一緒にいた女友達にも、「ねー、私、幸せよね。そう思わない?」と同意を求め、女友達は「そうそう、幸せ。こうして笑ってられるのは、本当に幸せよ、お互い」と自分も幸せ組に入れて、同調する。

「でも人生なんだから、悲しいことがあっても、つらいことがあってもいいんじゃない?」と、ジョルジュ・サンドがよみがえることを微かに念じてSに反問する。「私、面倒なことは考えないようにしてるの。それが幸せの秘訣よ」と、最後まで、「幸せ」に拘泥していた。私は鼻白んで、席を移した。

Kという男が近づいてきた。

そんなに仲がいいわけでもなかったが、Kは懐かしそうに話しかけてくる。

Kは定年になってから、会社の紹介である企業の顧問をやっている。週2回の勤務で、月に10万円もらえるという。あとの日は、フィットネスに通ったり、そば打ちに通ったり、週に2回はカラオケで仲間と歌ったりしているそうだ。そして、今が一番「幸せ」だと感じている、という。

私がまだ働いている、というと「大変だなー」と同情してくれ、しかし「有川は、若い頃から好き勝手なことをやってきたから、幸せには程遠いのだね」と、自分は苦労して今の幸せをかち得たようなことを言う。

 

私はKと話を続けても仕方がないと思い、一人になることにした。

なんで、みな、取りつかれたように「今は幸せ」というのだろうか。高校生の頃は、誰も「今、幸せです」なんて言ってなかった。

だいたい、高校生の頃は、「幸せ」という観念を有してなかった。だから「幸せになろう」という発想もなかった。ただただ、一生懸命、苦しんだり、不安におびえたり、たまに喜んだり、感情に任せて生きていた。

それが70歳になって、強迫観念のように「自分は幸せである」と他人に吹聴するのは、いじましくもあるし、また見苦しくもある。「幸せ、幸せ」と唱えて、自己催眠をかけて安心して、暮らす。70歳のときからモルヒネを打って朦朧と死を待って暮らすようなものである。

大体、幸せはというものは、喜怒哀楽と違って一時的なものではない。長い期間についての表現であるし、また絶対的な幸せというものはなく、他人との比較や、自分の違う年代での比較の表現である。

さんざんな目にあっている他人をテレビで見て、「あー、俺は幸せなもんだな」と思うのである。また、ひどい苦境に陥っているとき、「3年前の自分は幸せだったよなー」と思うものである。同期会であった老人のように、今、絶対幸福ということは意味をなさないのである。

それに、古来、「老・病・貧・孤」は四大苦とされている。このうち、病・貧・孤は復旧する可能性はあるが、老はない。我々老人は、基本ベースが苦痛の毎日なのである。「幸せだ、幸せだ」と繰り返しても意味のないことである。幸せでなくとも、人生は価値がある。絶叫し、号泣し、苦悶し、不安におびえ、悲痛にもだえて、それでいいではないかと思う。仕方ないのだ、現実と向き合うとそういうことになるから。薄笑いを浮かべながら「幸せ、幸せ」を繰り返すより、よほど生きている理由がある。

私の愛唱歌の、トップ・ギャランの「青春時代」、「青春時代が、夢なんて―、後からほのぼの思うもの。青春時代の真ん中は、道に迷っているばかりー」とあるが、その通りだと思う。老人時代が幸せなんて、死んでから、ほのぼの思うものであり、老人時代の真ん中は、道に迷っているばかりでいいのだ。というより、それしか方法がない。生きるということは。

そんなことを考えていたら、閉会の時間になった。みんなで校歌を歌うことになった。生徒会長だった男が、F高校に誇りをもってなどと愚にもつかぬ式辞を述べ、全員起立し、歌い始めた。私は歌わなかった。座って水割りを飲んでいた。「有川さん、歌いなさいよ」と、知らない女性に注意された。立ったが、校歌は歌わなかった。在校時代も歌ったことがないから、よく知らない、ということもある。それが終わると、出席者は三々五々、肩を抱き合ったりして帰っていった。

私は、一人で帰った。結局、陥った孤立感に索然とした気持ちであったが、来てよかったとも思った。何か体の中から勇気のようなものが湧いてきたからだ。

 

 

「幸せ」について考えてみると、第一に「幸せ」という言葉は、古来、日本にはなかったということに突き当たる。日本人は、長いこと「幸せ」を知らないで生きてきたのだ。

万葉集にある、

磐代の 浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらば また顧みむ                           有間皇子

父母が 頭(かしら)掻き撫で 幸(さき)あれて いいし言葉ぜ 忘れかねつる                                                                     防人の歌

などには「幸(さき)」という言葉はあるが、これは「健康」意味である(中西先生に教えてもらった)。

近世になって「仕合せ」という言葉が使われるが、これは「めぐり合わせ」のような意味。「有難き仕合せ」というと、ラッキーなことです、ということで、ハッピーとは違う。そもそも、英語のhappyも「都合がよい」という意味のhap(happenと同語源)という古英語に由来するそうだ。日本字ばかりではない、人類は、長いこと、幸せを知らないで生きてきたのだ。たまたまの幸運という観念はあっても、得体のしれない幸福という概念はなかった。ミルなんかが「最大多数の最大幸福」などと言い出してから、幸福強迫症が世に蔓延したのではないか。蔓延すると、幸福でないといけない、と思い込み、生き生きとした情念が消え、麻痺した心とを持って暮らすようになった。私は、さくらと一郎の絶唱・「昭和枯れすすき」の、「幸せなんて望まぬが、人並みでいたい」、私はこれを座右の銘として、後しばらくの人生を過ごしていきたいと思っている。