2018.3.9

家事老人

有川雄二郎

私は、積極的に家事を行う。

それゆえ、私の一日は朝のゴミ出しから始まる。

私の住んでいるのは豊島区であるが、30mくらい歩くと新宿区となる。そこで、私は二つの区のゴミ収集日を活用をする。燃えるゴミ、ビンカン、段ボール、プラスティックなどに分かれて収集されるが、両区を併用すると各収集日が2倍に増えるので、大変便利である。豊島区だけであれば週間に1回のビンカンの日も、新宿区と併用することによって週に2回が可能になる

生ごみなどもあわせて週6回となり、夏場などたまったゴミがすぐ捨てられ、台所でゴミが匂ってくる心配はない。

私の生家は、現在、前の妻が住んでおり、彼女の子どもと孫も(彼らは私にとっても同じ関係にとなるのだが)住んでいる。私が悪いという事情があり、自分の生家を出たのだが、経過は今は述べない。生家は世田谷区深沢にあって、そこは、静かではあるが、目黒区に4キロ、渋谷区に6キロと、ゴミ捨てに関してはまるで陸の孤島のようなところで、隣接自治体の応援が得られず、不自由なゴミ捨て環境であった。今の2区にまたがるゴミ捨て状態から考えると、実に不便な地域であった。この点だけとってみても、やはり前の妻と別れてよかったな、と思う。

とはいえ、金属・ガラスなどの資源ゴミの収集は豊島・新宿両区とも、そもそもが2週間に1回しか集めにこないので、両区合わせても1週間に1回しかならず、我が家のようにビール、サワー類、トマトジュース、イワシのかば焼き缶詰、カセットコンロ、ゴキブリキラーなど各種缶類を愛用する家庭では不便さが残る。

ところが、散歩をしていて発見したのだが、同じ豊島区でも高田1丁目1~2番地あたりは、豊島区・新宿区・文京区の三区が50m以内で境を接しているではないか!ゴミ出しは、さぞや便利だろう、いいなあ、と実に羨ましかった。

このように三区が近接しているゾーンは都内に十数か所ある。ゴミ捨ての便は住居選択の多いな要素となる。不動産屋はこの点ぬかっており、賃貸人によく説明していないのだ。だが、毎日のゴミ捨の事である。住む人の精神的なストレスや、家庭内の衛生や快適さにかかわる問題だ。「築10年」とか「ペット可」とともに、「ゴミ収集日延べ週12日」などと表記すべきであることを、ここに、提案する。

さらに、驚くなかれ、四区接近ゾーンも都内に2か所だけある。一つは中野区江原町3丁目1番地あたり(中野区以外に練馬区、豊島区、新宿区が50m以内)、もう一か所は荒川区西日暮里4丁目28番地あたり(荒川区以外に北区・文京区・台東区と隣接している)である。2週に1回のビン・カンも週2回になる。まさにゴミ捨て自由自在の地である。

念のため、現地視察をしたのであるが、両方とも一見何の変哲もない住宅地である。4区が交わっていても、区ごとに道の色が違うということもなく、検問所も鉄条網も特にないのでどこが区境かもわからない。往来も自由である(当然だが)。不注意な通行人は、ここがゴミ出し天国であることを気づかないだろう。しかし私はその場に立ってみて、ここが日本中に追随を許さない、「ゴミ捨て無双」の地とも言え、また4区の収集車が入り乱れる「収集車激戦区」とも言えるゴミ捨て聖地と思うと、実に感無量であった。諸君も一見すべきであろう(早朝、ゴミ捨て人と4区の収集車が忙しく交錯する頃が良い)。

 

さて、朝のゴミ出しは、近所の住民とのコミュニケーションの場でもある。私がゴミ袋を二つも三つも持って取集場所に歩いていると、近所の人(と言っても、すべてが65歳以上90歳台までの女性)から声がかかる。残念なことに、男のゴミ捨てが珍しい、とか、老人とはいえ男の私に関心があって、出来れば自分の家に引きずり込もうという話ではない。もう彼女たちは異性への関心を喪失している年代なのだ(私はまだ、くすぶっているが)。そうではなくゴミ捨ての正しいあり方を私に指導しようというのだ。

「お宅、豊島区にお住まいでしたよねー?」、新宿区のゴミ収集か所に捨てようとする私に、ゴミを置いた瞬間、声がかかる。尋問の趣旨は予想がつくので、「最近、引っ越してきたんで、周りの事はよくわからないのです」ともごもご答える。すると目ヤニのたまった年老いた目をじっと私を見据えたまま「ルールは守ってくださいね」と、ぴしゃりとおっしゃる。「私は都民税を払っており、自由な都民でありたいのだ」、と呟くが、ことが面倒になるので大声では言わない。

また、コンテンツ(袋の中の)に関心のある近所の女性もいる。「あら、今日は燃えるゴミの日ですよ。プラスティックが入っているようだけど、困るわねー」とまゆを顰める。「プラスティックは燃やすとダイオキシンが出て、人体には猛毒になることはご存知ですよね」、私は「すいません」とか小声で言って小走りに逃げ去る。だが、本当は「生ごみだけだと燃焼力が弱いので、ゴミ焼却所ではプラシティック類を混ぜて燃やしてるらしいですよ。ここで分けても、また一緒になる」と教えてあげたいが、これも面倒になるので、黙っている。いったい、分別の件は私が注意されるゴミ問題で最も頻度が多い事項である。私の子供のころ、ゴミ出しといえば、家庭ごとの黒く塗った木製のゴミ箱に大八車のゴミ回収であった時代(小学生のころ)でも、さらに長じてモスグリーンの円筒形プラ容器にゴミ容器が変わってからも(中学から高校生のころ)、ゴミ分別は特に言われなかった。分別が身についてないのである。それに、定義からして、そもそも、私たちの身の回りの物を、それぞれの属性により「雑誌」とか、「野菜」とか、「プラスティック容器」とか、「衣類」とか、「猫」とかの集合に分類していたものを、やめて、「不要」と言う一点に注目し、「ゴミ」と一切を包括して定義しなおし、新しい集合を形成したのだ。その手続きを無視し、一回まとめたものをまたほどいて、「燃えるゴミ」「不燃ゴミ」「資源ゴミ」「大型ゴミ」「生活ごみ」など無理に分類しようとする。これは「ゴミ」の本質に悖り、集合論から言っても間違いだ(と思う)。しかし論理的に物事の本質を思索するようなことは女性は嫌いだから、これも何も言わず黙ってこうべを垂れて拝聴する。

あと、ゴミ捨ての時間帯に関してもよく注意を受ける。当日朝の8時以後に捨てなければいけない、という決まりがあるらしいのだが、収集車は神出鬼没であり、早いときには8時30分には来てしまうので、間に合わないといけないから前の日の深夜にゴミを出しておくことが多い。夜遅く、誰も見てないはずなのだが、翌日、何食わぬ顔をして家を出ると、隣の高齢女性から、「ゴミを夜出されると、猫とかカラスとかがつつきまわすのよ。おやめになってくださる?」と注意される。誰が、いつ、どうやって見てたのか? ビッグ・ブラザーの監視の目からは逃れられない。

同じ女性でも若い人はゴミの事を言わない。どういうわけか、老齢になると、ゴミのあり方について細部に至るまで規律を求めるようになる。女は中年になると、ゴミ以外に話題がないのか、と聞いてみたくなる。例えば「自分の人生はこれでよかったのか、悔いはないと言えるのか?」、とか、「自分にとって愛欲とは何だったのか?」とか、より根源的な問題について私に聞いてこないのか、と尋ねたくなる。私は真摯に答える用意はある。しかし彼女らは自分の境遇が似ていて親近感とかシンパシーが湧くせいなのか、「ゴミ」には神経質に意識を集中し、その扱いにはエキサイトしていく。。

 

そういうわけで、私の1日はゴミ出しから始まるのだが、ほかにも家事をする。

ゴミ出し以外では、ご飯の支度をする。

あと、お惣菜の買い物をする。

あと、掃除もする。

掃除は電気掃除機と雑巾がけと両方ともする。

あと、ふろ場掃除をする。トイレも。

あと、ご飯の後の洗い物をする。

あと、クリーニング屋に洗い物を持って行ったり、妻の好物の甘いもの(草餅、みたらし団子、道明寺など)や菓子パンを買いに行く。

あと、大家に空調の修理とかドアのかぎの修理とかの交渉もする。

あと、洗濯物を畳んだりする。

あと、宅急便の受け取りと代引きの支払いと、近くのコンビニまで宅急便を出しにも行く。

あと、デリバリーの注文と代金支払いもする。

あと、糠味噌をつけたり、ラッキョウもつけたりする。

あと、植木鉢の水やりもする。

あと、トイレやふろ場の排水掃除もする。

 

 

こんな風に書いていくと、いかにも私一人で家事をやっているように見えるが、そんな事を言うつもりはない。妻も家事には大変、協力をしてもらっている。不満はない。

例えば、私が掃除をし始めるとき、妻はまだ寝ているのだが、掃除機の音に目を覚まして、鎌首を挙げて、ベッドの上から私の様子を見て、「ベッドの下は口の細いノズルに変えて吸い取りなさいよ」、「ドアの段差のところは念入りに吸い取ってね。いつも埃が残っているんだから」とか親切にアドバイスをしてくれる。また機嫌がいいときにはベッドから寝たまま、手を伸ばして、絨毯の上の自分のスリッパを持ち上げてくれて、吸い取りやすくしてくれる。絶えず、「椅子の下がまだ吸い取ってない」とか」、「カーテンも吸い口を替えて吸い取れ」とか、細かに指示をしてくれる。最後に「やっぱり、私が注意しないといい加減になっちゃうんだから」と講評を述べる。妻は他人が雑に掃除しているのを見てるとイライラしてくるたちらしく、「これじゃ、自分でやったほうが早いんだけど、それじゃタメにならないし」、とかいうような意味のことをつぶやく(「タメ」とは誰のタメなのか疑問は残るが、そんなことを一々気にしてると、夫婦なんかやってられないのである)。寝室の吸い取りを終わるころには、妻は細かな指導ですっかり疲れ果ててしまって、再び寝にはいる。

また、私が料理をしているとそばに来て、鍋からつまんで味見をしてくれる。「だめね、なんか足りないのよね。『加賀万』の卵焼きとは味が全然違う」とか「オテルド三国のシチューみたいに、コクがあってもべとつかないヤツ、作れないかなー」と激励というか、ヒントというか、新たな人生の目標を与えてくれる。

妻は親切だから、私が買い物にいくときは、必要な物をメモしてくれる。間違えないように、微に入り細に入り、行き届いたメモだ。「トイレットペーパー2ロール、ピンクの花柄模様が一面に入って2重巻きのもの(青い花はダメ)」、「カサブランカ(百合)、1本に花が3つ以上ついているもの白2本、ピンク1本。全開の花は不可、硬いつぼみも不可。咲き掛けかつぼみが膨らんでいるもの」、「粒あんの道明寺2個、包んだ桜の葉がしっかりしていて香がいいもの」とか書いてあって、「これなら、いくらあんたがズボラでも、間違えないわね。ほんとに世話が焼けるんだから。あー、くたびれた」と、ここでも疲れ果てて、私が買い物に行っているときは、どうも寝ているらしい。要領が悪くて、よけいな疲労を妻に与えてしまう私だが、しかし、メモを遂行するのは、私も疲れるのだ。スーパー2軒、マツモトキヨシ1軒、花屋2軒、和菓子屋3軒を回るが指定のものが中々見つからない。特にピンクの花柄のトレペが難しい。これはマツモトキヨシの店の奥の棚の最上段にあったりする。探しあてた喜びは格別なものである。見つけられないと、「ボケたな」「同じとこばかり見てるからダメなんだ」「買い物も一人前にできないのか」とかいう、愛の鞭がとぶ。それがないのは嬉しい。

そういうわけで、妻と二人三脚で家事にいそしむことに異存はない。

安倍内閣で進めている「働き方改革」の、「同一労働・同一賃金」の原則は、家庭では適用されないのだ。