2008.12.19

女の言葉

有川雄二郎

 

 今はもう冬。私はヒマである。社員もヒマそうである。
 ヒマな社員に給料を払うのは、社会的な不正であるような気がする。特にこういう不景気のときは、とてもイヤなことである。経営者としての、私のこの考えは、トヨタ、SONYなどの超一流の経営者とまったく同じなのである。しかしそれを口に出すと、私にとって、よくないことが起こると思う。
 もともと「社長の器ではない」(面と向かってですよ)と放言している社員たちだから、私が本心を述べたら、何をするかわからない。そこで、私は、無理に笑みを浮かべて社員に迎合し、「まあこういうときは、せいぜい骨休みしてよ。100年に一度くれた神様からの休暇のプレゼントだな。給料のほうは何とかするから,私が」と,薄笑いを浮かべて、心にもないことを言う。言うまでもなく「こいつら、いないとすごーく楽だよな」との思いはあふれるのだが、怖くて口に出せない。せいぜいブログに書いて、ひょっとして社員が読んで、「あー、社長は大変なんだなー」と分かってくれないかな、と淡い期待をするのだ。が、彼らは当ブログを読まない。社長に関心がないから。このあたりの状況が、一流の経営者とは、決定的に異なる点だ。つらいことだ。
 だからほかの事を考える。
どうせ考えるなら楽しいことがいいので、異性について考える。
 しかし、楽しいはずなのだが、これが余り良い思い出はない。私をめぐる最初の女性というと、まず母。母は自分本位の性格であり、自分が不機嫌なときは、たいして悪いこともしていない幼い私を、布団蒸しにして折檻をした。「私は森のけちなイタチで。もう悪いことはいたしません」と3回いわないと、暗黒の熱暑地獄である布団蒸しから解放してもらえなかった。それが実の息子にすることか、と今でも思う。
 次にら小学校の担任女教師。これは凶暴だった。ハンカチを忘れたぐらいで、竹の物差しで腕をひっぱたかれた。蚯蚓腫れが絶えなかった。「有川君のことを、本心から憎くて怒っているんじゃないのよ,良くなってもらいたいからなのよ」と言われたが、先生の本心はどうでも、こちらは先生を、本心から憎かった。
 長じて、マッチ売りの少女を憐れむ気持ちで、つい情けをかけ、結婚をしてしまった(元)妻。これは執拗な性格で、ニシキヘビの檻で暮らすような家庭であった。また、なぜか意地の悪い女性に共通する寒がりで、冬など、どんどん暖房を入れて、汗だらけで生活をしていた。その点でもニシキヘビの檻のようだった。やはり暴力的な性格で、石油ストーブを投げつけられたり、たんすのスーツとネクタイをはさみで全部切られたこともあった。。 
 今は、会社に来ると、部下の女子社員が何人かいるが、これはまた無感動・無表情・無反応。なんかガサガサと動き回っているが、昆虫と暮らしているようなものである。異性を語っていると、暗い気分になってきた
 私はつくづく女運がないと思う。
 やさしくて恥じらいのあるような女性と、死ぬまでには一度は、一時間でもいいから、いや10分間でいい、めぐり合いたいものだと思っている。

 

 それはそれとして、もうこの年だからはっきりと言うが、私がめぐり合った女性は、共通の愚かなな点があって、どうも、自分の言葉で考えるというクリエイティビティーがなかった。聡明な女はいなかった。よくできた映画に出てくるような、はっとするような、鮮やかな言語表現はなかった。
 彼女たちの、ここぞというときのせりふは、何の新味もない、飽きるほど聞いた、決まり文句を口にする。彼女たちは、それを決め台詞とか言って、「どうだ、恐れ入ったか。この台詞には参ったろう」と自信を持っているよだが、そのマンネ度はにはあきれる程である。
 選挙演説のように、または新聞の社説のように、馬鹿テレビの馬鹿お笑い番組の馬鹿タレントのように、女の決め台詞には独創性がない。
 さらに、それらの言葉は、理屈にも合わないし、矛盾していることが多い。その非論理性、非合理性にも私には耐えられなかった。
 ここで、私が見聞きした女性専用の決まり文句を出して、そこに孕むいくかの矛盾を指摘しておきたい。このようなことは、ヒマなときにこそ、やっておかなければならない事である。忙しくなっては出来なくなる。私は自分のことをよく知っている。社員とは違うんです。

 

「うそつき!」 
 女性は、私をまっすぐに見据え釘付けし、妙に芝居がかった搾り出すような低音で、私を断罪する。
 女性は大げさに騒いでいるが、そもそも嘘といってもたいしたことはないのだ。たとえば、「誕生日には、赤坂あたりのフレンチのレストランに行こうか?」とか、「俺は会社に縛られるような男じゃない。40歳までには必ず独立してみせるぜ」とか、「君の事を一生愛します」とか、「僕のお袋は、口うるさくて大変だろう。今度始末しておくから」などの嘘だ。目くじらを立てるほどではない。ほんとうは、嘘とも言えない、たわいもない、むしろほほえましいくらいの言葉なのである。
 ま、実現をさせないから、「うそつき」と短絡して言うのだろうが、これらの言葉ははそもそも事実の言明ではなく、希望の表明なのである。論理学上、まったく違うカテゴリーなのだ。真偽を問う、事実関係の問題ではなく、気分を表す心の表現なのである。簡単に言うと、嘘と希望は違う。似てるけど。私のこれらの希望の表明(嘘とは違う)は、私の快活な気分から出たイメージ上のプレゼント、と言ってもよい。
 これらの言葉を言ったときには、私の好意に感じて、女性も大いに喜んだはずである。 私の一言によって彼女の脳内に快楽物質であるドーパミンが放出され、恍惚に浸ったわけだ。十分満足したはずで、それでいいではないか。その幸福感のほかに、何を望むと言うのか。ありえない話の実現を望むのは貪欲であり、貪欲は女の大罪である。
 こういう説明をすると、女はまた「うそつき!」と言って怒るのだが、どんなに非難されても、私は節を曲げるつもりはない。希望と事実は違うのだ。
 実は、まだこれは言ってないが、死に臨んでは、以下のような希望を述べながら死のうと思う。。「僕が死んだあと、君が困らないような金は残しておいた。安心したまえ。お前には世話になった。仕合せだったよ」
これはもちろん、彼女流の表現では「嘘」になる。しかし、もう怒られないから安心して言える。

 

「泥棒猫!」
 この決め台詞は、比喩に誤謬があるが、個人的には嫌いではない。夫の不倫相手を、猫に例え、ビンタを張るのは日本オリジナルの文化儀式であり、今後とも保存して、しっかりと次世代に伝えていきたい。これはテレビドラマでもよく見られ、その影響を受けてか、広汎な女性に根付いている。また、言葉だけでなく、動作にも厳密な手順が出来てきた。
 そもそも「泥棒猫!」と言う決めせりふを言う資格がいる。勝手には言えない。「泥棒猫!」と言える資格があるのは、①ある男の妻のポジションにおリ、②相手の女性は夫と
情を通じ、③情を通じ合ってから1年未満であり、発覚して日は新しい(20年も付き合っているような場合には言わない)という条件を満たさなければならない。だから、単なる恋敵を、「泥棒猫」と言ってはいけない。また、男も言えない。
 未経験者のために、正しい「泥棒猫」の作法を述べる。よく学んで、美しく実践をして欲しい。
 まず、当事者は正面を向かわなければならない。後ろから、「泥棒猫!」とか声をかけてはならない。また、電話やメールではいけない。
 場所は、相手の女の家やオフィスであってもいいのだが、一番決まるのは路上だろう。相手の女が喫茶店を出たところを待ち受ける。周囲には多くのギャラリー(歩行者)がいたほうがいい。ギャラリーは「泥棒猫!」の声が響きわたるや、一斉に振り向き、瞬時に、二人の状況を理解する。ギャラリーの、驚きと喝采の入り混じった顔は、「泥棒猫!」の重要な構成要素となるのだ。
 「泥棒猫!」の前後には、余計なことは言わない。泥棒たる理由や説明をはさまない。「この泥棒猫!」という女性もいるが、「この」は余計であり、「泥棒猫!」のみのシンプルな美には及ばない。
 「泥棒猫!」と叫んだあとは、平手打ち、つまりビンタである。これがないとしまらない。間髪をいれず、お見舞いする。躊躇してはならない。「泥棒猫!」とビンタは一体のものである。
何人といえども「泥棒猫!」と叫んだ以上は、ビンタを張る権利がある。警察官がそばにいても、これを制止することは出来ない。 
 やられた相手は、無言のまま両手で頬を抑え、立ち尽くすことになっている。
  このクールジャパンを代表する風習も、クリティカルな目で検討すると、いくつか問題がある。その最大の問題は、これは女の貧弱な言語能力ゆえ責めるつもりはないが、そもそも「泥棒猫」の比喩は当を得ていないことだ。泥棒猫というのは、空腹に耐えかねた猫が七輪の秋刀魚を盗むことを指すのだが、空腹な猫の、やむにやまれぬ行為を、不倫になぞるのは、適当でない。
 また動物愛護の観点からも、問題がある。猫に対する偏見を助長することになる。トルコ人に悪いから、といって、ソープランドに呼称を換えた例があるから、猫に悪い。一度検討したらどうか。
 「泥棒猫!」をやられた女性の話によると、一度、誰かにやりかえしてみたくて仕方がないそうである。とても爽快な気分になれそうだという。ところが彼女の亭主がだらしなく、愛人ができない。それではターゲットがない。
 仕方なく、飼っている猫をビンタして「泥棒猫!」と怒鳴って、憂さを晴らしているそうである。猫が気の毒である。

 

「正直に言えば許してあげる」 
 このせりふでひどい目にあったことのは私だけではないと思う。
このせりふが登場するシチュエーションは、動かぬ証拠を突きつけられ、男性は既に追い詰められている場合だ。あわあわと、男はしどろもどろになっている。女は弱っている男に、司法取引めいたことを持ちかける、猫なで声で。
「正直に言えば、許してあげるわよ」。
 女は微笑んですらいるようだ。私は、「意外に、女房のやつ、やさしいんだな、やっぱ俺に惚れてんだなー」と馬鹿なことを考え、「ま、遊びですよ、遊び。どうも俺って、会社の女からほっておかれないんだよなー」、と気楽に自白をしてしまった。しかし、女の性、そもそも悪辣なり。女性は、許すという約束を守らないのだ、絶対に。
   「許してあげる」と聞いて、「なーんだ、正直に言えばいいのか、そんなの簡単じゃないか」とほっとした安堵の思いがよぎる。時には、ばかばかしくも心から懺悔をしたりしてしまうこともある。
 これが罠なのだ。女は菩薩のような顔をして、「うん、それで」とか、「あ、そのときはどちらがお金を出したの?」とか何にも思ってないけど、ちょっと聞いてみるだけ、と言うような顔をして、詳細に全部吐かせる。そして、もう聞き出すことが何もなくなってしまうと、女は一転して、獰猛な鬼になる。あとは、罵倒、折檻、暴力の山が待っているのだ。
 しかもこの凶行は1日では終わらない。暇を見て、特に夫の財布から金を強奪したいときには(これも1回ではすまない。同じネタで数回賠償させられる)、あるいは、ただ単に何か面白くないときの憂さ晴らしとして、いつでもぶり返して良いということになっている。また、「パパは悪い人なんでちゅよー」と子供に教え、親や親戚、友達にまで言いふらす。その攻撃の激しさは、何回目になっても衰えない。最初の感情を思い出して怒るのが、コツだと、元妻は教えてくれた。初心忘るるべからず、というのだろうか。
 元妻に「その様な恥知らずな嘘をついて、神の罰が怖くないのか?」と尋ねたが、「総理大臣の解散の時期についての発言、日銀総裁の金利についての発言、及び女の『許してあげる』の発言は、嘘であってもまったく問題がないのだ。日本国憲法に書いてある、知らないのか」と言う返事だった。私は憲法にそんなに詳しくはないが、多分書いてないと思う。

 

「私の体だけが目的だったのね」
 別れ話が持ち上がると、必ず出てくる女性のせりふである。私は、根が淡白なせいか、私が言いたいときはあっても、まだ言われたことはない。が、テレビドラマの女はしょっちゅう言っている。
 実もふたもないが、真相を言えば、そもそもこちらには、それ以外に目的なんかあるはずがないのだ、男は。
 ついでだから言っておきますが、(もし真実を言うことが許されるなら、)目的は達成したにしても、それほど充実感はなかったような気がすることがあるから、そんなに大層な物でもなかったのだ。
 それから、こういう目的を持っているのはは私だけではない。すべての男性がそうなのである。その上、あなただけに対してのみの特別の目的ではない。すべての女性に対して、そうなのだ。私は平等なのだ。
 さらに観点を広げて言えば、このような男の性向は人間だけではない。哺乳類一般に見られることである。犬や猫を見たまえ。
 彼らの情事が終わった後の顔つきや、すたすたと、あとくされもなく去っていく姿から、犬や猫のオスは、絶対に体だけが目的である。これは断言できる。しかも、メスはよく出来たひとがらだから、人間の女性のように、「あなた、私の体だけが目的だったんでしょう」などと、イヤなことは言わない。こちらもさっぱりしている。人間の女性は、犬の女性に学ぶことがまだまだありそうである。
 哺乳類だけではない。カブトムシもそうである。昔、私はこどものためにカブトムシを飼っていて、観察をしていた。夜になると、オスもメスもクヌギマットの中から這い出てきて、スイカやきゅうりをかじるのであるが、腹いっぱいになると、オスはメスの上に乗っかり、人前憚らず、あられもないことをする。しかし、終わったたオスはわき目も振らずクヌギマットの中にもぐって、また睡眠をむさぼる。優しい言葉も、前戯も後戯もない。カブトムシのオスも、メスの体だけが目的であることは明らかなのである。
 ペンギンがオス、メス協力し合って卵をかえすとか、おしどりは一生相手を変えない、とかの反論もあるかもしれない。私には、鳥の考え方が理解できない。とても鳥には、ついていけないのである。

 

「あたし、可愛いおばあちゃんになりたいの」
 それは絶対に無理だ。
 すでに、この若さで眉間に意地悪じわができている。
 あごに欲張りふくらみが出来ている。
 目が、うそつき下がり目になっている。
 絶対に無理だ。
 だいたいにおいて、底意地の悪い女が、かなわぬ願いを持つ。

 

「ケンちゃんなら、やってくれたよう」
 ケンちゃんとは、昔付き合っていた男のことだ。
 そいつと比較して、競争心を男の心にかき立てさせ、そこで自分のあくなき願望を達成しようとする、女のつまらぬ策略なのだ。
 『やってくれる』と言う内容は様々で、ミッソーニのコートが欲しい、2着ね、とか、ハワイに1週間行かせろとか、私の生意気な母親を早く始末しろとか、1億円の生命保険に入って早く死ねとか、口にするのも憚るような閨の行為とか、ともかく、一つとしてまともな願いはない。
 そのうえ、女性は、その願いを聞くことのがいやだからこそ、ケンちゃんが君から去っていったことを理解しようとしない。