2010.3.11

タフネゴシエイター

有川雄二郎

 

交渉は、私に苦手のうちの一つである。もちろん、他にも、苦手なことは、山ほどある。英語のヒアリング、一日以上のダイエット、お世辞に対する防御心、お葬式のお悔やみ(特に本心から言うもの)、下手な落語家、異性のヒステリックな攻撃、すっぽん料理(その他いかなる爬虫類料理も)、警官、ホテル・フロントや薬剤師などの回りくどい説明、虫歯のドリル、社員の教育、社員への愛情、社員への感謝心、社員への給与支払など苦手なものはきりがなくある。毎日、苦手の海で生活しているといってよい。しかし、それらは苦手といっても、できなくとも生命に異常はないから避けて通ればよいが、交渉は別で、ビジネスではこれが上手でないと会社の経営に死をもたらす。私は社長である。苦手でも、交渉はする。そしてうまくいかない。過去に、この交渉、うまくいったな、という経験は一度もない。
交渉で苦手なのは、交渉にはかけひきが大事で、本音を言ってはならない、というところにある。
たとえば業者を値切るときは、「別にそんなものは欲しくないぜ」「半値でやってくれるところも何社かあるしさ」「なきゃないで済むしね」などと事実に反することを言う、それが私にはできない。気が弱いから相手が怒ると怖いから、ということもあるけれど、相手以前に、事実と違うことを言って、自分が平然としている度胸がないのだ。もとの女房は的確に私の嘘を見抜き、「明日の日曜、オレ、出かけるよ。仕事が入っちゃってさ」、とか、「来年あたりパリに行こうか」、とか、「何のかんの言って、君といるときが一番心が休まる」というと「あなた、嘘でしょ」と決め付ける。あなたが嘘を言うときは、小鼻がぴくぴくするからすぐ分かる」、別れる時に教えてくれたが、小鼻の動きは私の良心の揺らぎである。

 

交渉のうまい人は、だいたい無口だ。私は無口に弱い。「ねえ、10万円で如何ですか?」とこちらが、切り出しても、能面のような表情を崩さず、はっきりとした反応はない。
私は行き詰った、空気の止まったような雰囲気に弱い。かもしだされる緊張感を堪えることはできないのだ。
なんとか場を和らげなければと思う。「えー? ダメなんですか? それじゃ15万、それで決めましょうよ」、それでも返事がしない。表情も変わらない。まずい、相手を怒らしたのだろうか?
この不気味さに負けて、話が弁解じみてくる。「いや、お金があれば私、こんなこと言いたくないですよ。ないもんですから、つい、失礼しちゃって」としどろもどろに謝ったりもする。
ダメ押しの鋭い視線を相手は投げかけてくる。こうなってくるともう無条件降伏、「分かりましたよ、それじゃ18万円。これで決めてください。ダメかなー、ジャもう最後ですが20万円、これで決めましょうよ、それで楽しい話でもしましょう」などと、自問自答をしながら、自分で値を吊り上げていくという、馬鹿馬鹿しい結果となってしまうのだ。

 

私は交渉はもうしないことにした、交渉する能力はないのだから。
すがって泣きつくか、あとは最初っから腹を立てて駄々っ子のように振るまうかしかない。