2016.7.19

わがままな老人

有川雄二郎

私も随分、年を取ってきた。すでに老境にいる。しかしまだ働いている。
本当は引退したいのだが、蓄えがなく、食っていけないので、やむなく恥をさらしながら、若い者に交じって働いているのである。
そんなことはともかく、若い者にまじっているので働くのは、なかなか骨の折れることである。私が一番気を遣うのは、若い人たちに私が迷惑をかけてないかという点である。
若い人たちは、私に対して言いたいことがあっても、年長者に対する遠慮があって、なかなか言えないのではないか。それだけに老人の私たちが自ら律して、いささかの迷惑もかけてはいけない、そう思うのである。

なぜこのようなことを言い出すかというと、最近の老人たちは、周囲の人たちの迷惑を考えず、自分勝手の行動をするのを、一度や二度ではない、かなり頻繁に見かけるからである。同年代の人たちのことを悪く言うのは気が進まないが、どうも、最近の老人にはわがままなが多いように思える、特に人目にさらされる公共の場において目立っている。。
私の世代は、今と違って、幼少時に学校や家庭で公徳心を厳しくしつけられてきた。授業中おしゃべりをしたり、給食を残したり、下級生をいじめたりすると、先生から厳しくとがめられ、場合によってはビンタや、竹の定規ではたかれたり、廊下に立たされたりする。体罰を喰らっても、それは本人がいけないから、とされてきた世代である。そうした、私と同世代の老人たちが、公共の場で、傍若無人にふるまっているのは、実に気恥ずかしく、情けなく、見苦しいものである。悪意はないのだ、大目に見てくれ、と甘えた気持ちでいるのかもしれないが、無邪気で許されるのは五歳までのことだ。齢七十に達する人間は、その行動には、よし、国民の範となるべしとまでは言わないとしても、おのずと節度があってしかるべきだ。

具体的に言おう。老人が公共の場で迷惑をかけるのは二つの類型が見られる。
「歩行」、「忘却」の2パターンである。
「歩行」は、老人が天下の公道を歩いている時を指すのではない。よたよた歩こうが、とぼとぼ歩こうが、それは、老人らしい風情とも言えることなので、構わない。

そうでなく、狭い通路を、多くの人が連なって歩く場合である。飛行機の機内に搭乗する際とか、新幹線に乗り込んで通路を歩くときなどである。
老人の後ろについて歩いていると、彼らは、なぜか、突然立ち止まるのである。何の予告もなく、立ち止まる。後続の人間はつんのめったり、前の老人にぶつかるのを避けようとして、通路横の座席に倒れ掛かったりする。通路で、急に立ち止まるのは、老人だけだ。本人は、それが、後続の人たちにどれほど迷惑をかけているのか、気が付かないようである。
また、老人の歩行といえばリュックはつきものだが、リュックを背負った老人が通路を進みながら、突然、振り返る。これも周囲に無通告であって、ピボット回転をするから、背負っているリュックも同時に回転して、周囲の人たちを薙ぎ払うのだ。自分以外の人たちのことを考えないのだ。
それから、遠くにいる仲間に、大声で呼びかける。これは女性老人が多いが男性老人もいる。列車の入口のドアを開けた女性の老人(つまりお婆さんが)が、10列も先の連れに、「だめだめ、シャケのおにぎり売ってなかったのよ。昆布にしたけどよかったー? あたしはシャケより好きなのよー」、とキオスクでの昼飯の調達の成果を、大声で報告をする。どう考えても緊急性があるとは思えない内容を、彼女たちは一刻も早く、仲間に教えてあげたいという誘惑にかられて、遠方から、したがって大音量で伝えようとするのだ。ニコニコ笑いながら怒鳴っているところを見ると、自分を童女になぞって、傍の人からはかわいく見えると思っているのかもしれないが、無論、そんなことはない。さらに、童女に擬した老女は、車内の通路を進みながら、最初の報告に伴う付帯状況、例えばほかにキオスクに並べられていた食品、その中には自分の孫が嫌いなものをあったという事実、自分の最終食事時間及び食欲の回復状況など歩きながら、大声を出して仲間に伝える。これは、車内の客全員に、自分たちの置かれている状況を「丁寧な説明をし」(私のかなり嫌いな言葉であるが)、「情報を共有する」(私が全く嫌いな言葉であるが)こと目的にしているのだろうか?
男性老人は大声遠距離会話は、女性とコンテンツがやや異なる。「確認」が大声の目的である。

男性老人客の数人の行列が車内の通路を通る、ふと通路の先頭の老人は振り返り、最末尾の老人へ、確認のための、大声が発せられる(なぜか、老人はすぐ後ろの人にではなく、再末尾の人に確認を求めるのだ)。「おーい、この車両でよかったの?」。男性老人はあらゆることを、大声で、朋輩に確認する。座席番号の確認、ボックスの中での座りポジションの確認、車内販売で買うのはビールか焼酎かの確認、金を払う意思表明と支払者決定の確認、支払者への謝辞と冷たいビールはいつ飲んでも美味であり、自分はいま幸福感に浸っていることの確認など。これらの確認作業は、男性老人(つまりお爺さんの)の特有の胴間声で行われるのだ。私を含む、これらの老人の胴間声を無理やり聞かされる周囲の人たちは、彼らの内部情報を知りえることの喜びはしもなくなく、また彼らの開放的な性格に共感を覚えることもなく、ただ老人の不快な声質と不快な音量に悩まされるだけなのだ。

彼等は公共空間とは何かということが分かっているのだろうか?

 

もう一つの、老人からの迷惑、それは忘却である。
これも、一人で、勝手に、自己完結するなら、何を忘れても、それは構わない。三日前の夕飯のおかずでも、さっきまでしていた眼鏡をどこに置いたのかでも、銀行の暗証番号でも、うまいカレー屋の店の名前でも、厚生年金手帳をしまっておいた場所でも、[article]の意味でも、小学校の時の担任の名前でも、自分のいとこの名前でも、自分の母親の名前でも、自分の名前でも、一人の老人が何を忘れても、世の大勢に影響はない。
困るのは、老人が、他人との約束を平気で忘れることである。
亡くなった観世榮夫氏は、劇場を間違ってしまって、舞台を休演したという話で、さすが大能楽師、小さなことに拘泥しない芸術家の鷹揚な心持に尊敬の念も一層深くなるのであるが、私の身の回りにいる、ただの爺が、約束の場所、日時を忘れるのは、称賛できないばかりか(当たり前だが)、可愛くもないし、苛立ちを覚えるのみである。
約束の場所に現れないので、電話をかけると、決まって、「あれーっ、約束したの、明日だったんじゃない? 僕の手帳に、ほら、15日の土曜と書いてあるもん。君が間違えてるんだよ。今日は14日だよ。いい、いい、君だけじゃない、年をとるとみんなそうなるのだから、気にしなくてもいいんだよ。じゃ明日ね。ドンマイ、ドンマイ」ととぼけたことを言う。自分はさておき、私を年寄り扱いして(事実ではあるが)、勝手なことをいうのだ。そもそも、明日は16日であって15日ではないし、しかも15日は金曜日であって土曜ではないのだ。
このようなボケ老人と、電話のみで約束するのは大変危険なので、あとで証拠になるよう確認のメールとかファックスを相手方に送り付けることにしている。
どっちが忘れているのか、動かぬ証拠があるのだ。
「いやいや、間違っているにはそちらだ。ショートメールを確認して。先週の金曜日の18時30分ごろに私は確認のメールを送ったはず」とこちらの記憶力は少しも衰えていないから、厳しく指摘をする。
確認のためにしばらく間があり、やがて「むぐっ」とか奇妙な発声があり、「あー、そのようだね」、妙に落ち着いた声で答える。「困るんだよね、僕も時間を無駄にしたくないしね」と追及すると、突然開き直る。
「だって忘れたんだから仕方ないじゃないか」。
このようなことは若い人は言わない。
恥を知れ、と言いたい。忘れたから仕方がないで済めば、警察もいらないし、裁判所もいらない、契約もいらないし、そもそもコミュニケーションもいらない。そういう厚顔無恥な言葉を発するのは老人だけである。これも、彼らがいかに公共の中でふるまう自覚がないことの証左である。

老人のわがまま、迷惑な言動に、私は日常茶飯事的に接しているので、若い人にいささかの迷惑をかけないよう、私は神経質なくらい気をまわしている。そのせいで、私は若い人と混じって働いていても、トラブルなどないし、あえて言うが、尊敬心すら抱かれているようである。特に賞与を支給した後、3時間くらいは、若い人からリスペクト受けているな、と肌で感じるのだ。
そんなわけで、私は「年寄りだからと言って迷惑をかけてはならない」という精神を貫いていて、若い人たちとは非常に良い関係でいる。

もっとも大変残念なことに、若い人たちの、ごく一部であるが、思いやりのない人というか、心の貧しい人たちがいて、そんな人たちとはうまくはいかない。これも現実だ。向こうが悪いのだから仕方がないことだが、いわゆる、「身に降る火の粉は、払わなければならない」のだ。
例えば、私が新幹線に乗って、自分の席を探すとき、ふと席番がわからなくなる時がある。ついさっきまでは覚えていたのだけど、加齢による短期記憶力の減退(海馬がつかさどる)があって、これは自然現象であって誰を責めるわけこともできないことである。確か、「6」という数字が絡んでいた気がするのだが、まてよ6「番」でなく、6「号車」だったっけ? そうであるならば引き返して6号車に戻らなければならない。いくら考えてもわからないから、チケットを見直そうとするのだが、今度はチケットが見当たらない。
ズボン、上着のすべてのポケット、ワイシャツのポケット、お財布の中、カバンの隅々、すべてを探してみるが、どこからも出てこない。この不条理な状況に対して、「切符は必ず出てくる」という座右の銘ともいうべきことわざで思い出し、決して慌てることのないように努める。努めるが、ことわざは思い出しても、チケットは出てこない。出てこないものは出てこない。
そんな時、私の後ろに並んでいる若い者が、きわめて冷たい態度をすることがある。「ちえっ」とか「糞っ」とか、聞こえがよしに私にプレッシャーをかける。私と座席の間の狭い空間を無理やり通り抜けようとする。いい若い者がなんでそんなに意地が悪いのか? 列が滞ったとしても、別に新幹線の出発が遅れるわけではないのである。1分早く座れるのかもしれないが、それがどうしたと言うのだ。私に恥をかかせたいのか? そういう思いやりもない人には、若いからと言って私は容赦をしない。こうなったら、意地でもゆっくりと探す(チケットは携帯電話の折りたたんだ間から出てくる時が多い)。
それから仲間と一緒に乗る時もある。仲間が年を取ってきて、耳が遠くなってきているので、なるべく大きな声を出して話してあげる。また仲間同士で旅をするのが嬉しいので、冗談を言い合って、腹の底から笑う時もある。若い人たちの一部には、それが気に食わないのだ。うるさいなー、と露骨に嫌な顔をして、こちらをにらむまた、正義漢を装って「少しは、周りの人の迷惑を考えてください」と言ってくる猪口才な青二才がいる。また、車掌に密告をしておいて、知らん顔してすましている卑劣な少女たちがいる。
考えてみてくれ給え。我々の声がうるさいといったって、所詮は年寄りのしわがれ声。新幹線や飛行機の発する音量に比べば、屁にもならない音量である。大騒ぎすることはないのである。
そもそも、新幹線は公共空間である。大勢の知らない人間が乗り合わせているのである。自分の感覚のにを正しいこととしてほかの人間を、その基準に合わせようと強いる。そんな勘違いをしている連中が若者にもいる。先日私が新幹線の中で(隣は空席)携帯でショートメールを打っていたら、後ろ斜め若いカップルが、私のメールを打つ音がうるさいと、車掌に告げ口をした。携帯からのかすかな音、ピッ、ピッというのがうるさいと言うのである。車掌が、「他のお客様がご迷惑ですから、おやめいただけますか?」
と言うので、「そんなことは貴方を介さなくとも直接話し合うからいいです。どなたですか? うるさいという方は?」と聞いたら、「いえいえ、それは教えられません」と車掌が言う。私、「それでは問うが、この新幹線の騒音の中、携帯のピッピッ音が聞こえますか?」。車掌、「えー、聞こえます」。私、「それではこれから何回かボタンを押しますが、何回押したか、その回数を答えてください」。車掌「………(無言)」。私、「聞こえないでしょう。しかし聞こえるかどうかより、列車の中は公共空間、天下の大道であることを認識してください。各自が自分の主張を貫けるのは、せいぜい、シートの60センチ四方。それ以外の空間は、何をしても、法に触れない限り許容すべき。他の客の行動を自分の感覚に合わせろ、それに、うるさいというなら、販売ワゴンの売り声や案内アナウンス、新幹線の走行騒音のほうがよほどうるさい。しかしそんなことに文句を言ってはなりません、ここは公共の場であるからです」。車掌、無言のまま去ろうとする。私、「逃げるのですか?」。車掌、「いや、新大阪で交代なんです」。
私、「交代なんかやめて、この議論を続けようではないですか? JRにとっても必要な認識です」。しかし、車掌は去っていった。
若い連中は、無言の行を続けるのが新幹線の正しい乗り方と思っているかもしれないが、車内は、修行の場ではないのだ。旅行は、つまるところ、物見遊山なのだ。楽しく、大いに話し、大いに笑う。目くじらを立てて、「うるさい」などと言わないでほしい。公共の場とは何かということをわきまえてほしいのだ、若い人たちにも。

目くじらで思い出したが、若い連中の一部に、私が時々物忘れをするのに、ひどくとがめだてをする人がいるが、まったく、心の狭い人たちである。たかが、約束の時間を2時間か3時間、または1日か2日、間違えたとからいって、「もうろくじじい!」とか「ボケましたな」、「これで何回目になりますか、時間の間違い」とか、皆の前で、ひどい言い方をするのだ。つまり、これはつい、うっかりした、というやつで、悪意はないのだ。それをしつこく、鬼の首でも取ったように大げさに騒ぎ、ねちねちと責めてくる。いくら、「ぼけっ」と罵られても、記憶にないものないので仕方がないのだ。
また、私への約束のメールを取り出したり、「一緒に喫茶店に行って、ほら、コーヒーががなかなか来なくて、あなたがウエイトレスに注意した時があったでしょう。そのとき、『次回に資料を持ってきてください、お願いします』とぼくが言ったでしょう。そしたら、あなた金色の手帳にメモしたじゃないですか?」などと微に入り約束した時の状況を教えて、思い出させようとする輩もいる。私は、根が正直でこだわらない性格だから、「ああ、そう言われればそうだったねー」とあっさりと認める。
「そうでしょう? 困るんだなー、簡単に忘れられては?」と攻めてくれるが、相手に言われたから思い出したんであって、言われなければ思い出さないのだから仕方がない。
彼らは、若いくせに底意地が悪いのだ。あっさり笑って許すということができないのか。偏狭な性格で、若いうちからこのようなことでは、年を取ったらどんなに悪い性格になるかと心配になるくらいである。私は、そんな若い人たちと付き合うのは御免こうむりたい。

このような一部の若い人たちとはうまくいかないが、このような人たちは例外的な存在だ。私は、これからも大半の若い人たちの気を遣いながら、うまくやっていける自信がある。また、わがままな老人たちは、大いに自分のわがままな言動に慎み、反省してもらって、円満に若い人たちとつきあっていけるように、大いに努力が望まれるのだ。