2009.5.12

にっぽんは神仏の国

有川雄二郎

 

 日本人は無宗教だ、というのはとんでもない間違いだと思う。
 実は、我々は深く仏教思想、神道思想に支配されている。それに気がつかないだけなのだ。
 キリスト教信者のように、教会に行くとか、神父に懺悔をするとか、目に見える宗教儀式をしていないから、日本人は無宗教だと決めつけるのだろう。しかし、実は、神仏思想は形式を超えて、もっと深いところまで私たちに染みこんでいる。
 それは、染みつくという生易しいものではなく、我々の発想や情念の基本構成体そのものともなっている。仏教で言うと、輪廻、因果、修行などの仏教の基本概念は我々の考え方の基礎をなしている。江戸時代の歌舞伎の脚本など読むと、まさに「因果は巡る尾車の」の世界で、仏教的原理の説話になっている。古典歌舞伎台本(ことに世話物)は、説話やアレゴリーの多いことでは、まるで聖書を読むようだ。江戸時代をひきついで生きている現代の日本でもそうで、ちょっとした日常会話でも仏教原理はたくさん出てくる。

 

(居酒屋でサラリーマン)
課長「君のチームの山口君は、愛想は良いし、口はうまいけど、成績はさっぱりだね」
主任「時々、説教をしてるんですがね。たまには釈迦力になって仕事をしろって」
課長「どうも最近の若い者は、無心になって仕事をするということがないね」
主任「往生しますよ、何かというと私に頼ってきて。考えることが他力本願なんですね
課長「営業には無理だな。総務にでも引きとってもらうか? 君のほうから、引導を渡してくれないか。そのほうが功徳になるよ

 

(家庭、深夜のダイニングルーム)
妻「あんた、最近、帰りが遅いけど、また魔が差して、会社の若い女の子に手を出しているでしょ?」
夫「鬼のような顔をして何を言うんだよ。俺は知らないよ」
妻「知らぬが仏、と思ってるんでしょう。誤魔化したってわかるのよ。仏の顔も三度よ
夫「毎晩、残業しているんだよ。変な因縁つけないでよ。それに女はもうこりごり。僕はもう悟りを開いてるんだから

 

(母と娘の電話)
娘「ねー、お母さん、10万円貸してくれない、後生だから
母「ダメよ、私だって、最近、お金にはトンと、ご縁がないからね
娘「頼むわよ。この通り、拝みますから。 ダメ? ケチババアッ」
母「あんたも罰当たりなことをいうんじゃないよあきらめなさいよ

 

(黒塗りの車、政治家が二人)
政治家・子分「この収賄事件が明るみに出ちゃあ、あいつもお陀仏ですね」
政治家・親分「業が深いな、あの男は。まあ、救われないだろうな
子分「自業自得ですね。前は、これからは、生まれ変わります、と言ってたんですがね」
親分「おとなしく成仏すりゃ良いんだ。昨日の夜、本人に電話をして、『潔白を信ずるから』と言っておいた。嘘も方便だからな

 

太字は、これみな仏教由来の概念である。このように我々は仏教概念の操作によって状況を理解し、行動の可否を判断しているのだから、立派な仏教徒である。西洋人がキリスト教徒である以上に、根っからの仏教徒であるかもしれない。

 

仏教に較べれば、思考形成への神道のほうの影響は、種類は少ないのだが、強力である。

 

きったねえなあ
きれいにいきましょう

 

けがれ、はまずいのである。
 「有川は馬鹿だな」と言われても、私は痛くもかゆくもない。場合によっては(社員から言われた場合などは)、馬鹿でない証明をしたりするが、大体は、めんどくさいから馬鹿と思わせておく。馬鹿とか利巧とか言いますが、そもそも何を基準にしてそう言っているのか、わからない。知能テストや試験問題が解ける能力と、人生知・世間知は相関しない。多分、後者のほうで賢明なほうが大事なことだと思う。
 「有川は悪いやつだ」と言われても、ま、貴方だってそんなに人のことは言えないでしょう、ぐらいのこと。第一、悪いとか悪くない言うのも相対的なことで、我々の道徳性については、我々は我々より悪くない奴よりは悪いが、我々より悪いやつよりは悪くない、といって済ましてられるのだ。日本人は、絶対的な善とか、絶対的な悪というものの存在は認めてない。死刑囚の涙、改悛の情、などは日本人が好むことば。悪人正機であって、絶対の善人は馬鹿でない限り、認められないのだ。
 我々は人の倫理的な善悪や、賢愚には、さして重きを置いて物事を考えない。
 そして「きれい、汚い」だけが、者を判断するときの絶対的な基準なのだ。
 私は「有川、きったねえなあ」といわれるとムキになって否定する。また、「きたない」と言われて、身に覚えがあるときはしゅんとする。反論できない。
 会社でも、スポーツ界でも、泥棒同士でも、刑務所の中でも、「きったねえなあ」といわれる人はいて、そういう評価が定着すると、その人は村八分される。日本の社会は、やくざでも坊さんでも、馬鹿でも利巧でも、悪人でも善人でも共存している。しかし、きたないやつだけは許せないのだ。
 この、きれい、きたないは、もちろん神道の根本的な概念である。口をそそぎ、手をそそぎ、お参りをして身も心も清めてもらう。我々は、古事記以来、「清き心」を追及している民族なのだ。
 神道にはもう一つ、「祟りがある」ということを言う。私も元・妻や、現・部下に祟られて苦しい目にあっている。苦しい目にあっても、これは「祟り」だから仕方のないことである。苦境の改善や脱却はあきらめている、なんといっても祟りなんだから。

 

 以上で私の見解は終わりますが、「神仏に影響されている? だから、なんだって言うんだ。お前は何が言いたいんだ」という疑問をもたれる方もあろうかと思う。
 結論は、だから、SAPが好んで行う寺社でのイベントはいいことなのだ。そしてそれが分かったらチケットを買ってくれ、ということです。最近、調子がいまいちだから、この点を特に強調をしておきます。