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2010年08月24日
残暑見舞い
有川雄二郎
街に出れば炎暑地獄の日々、初老の身に外回り、とぼとぼと歩いていくと、道全体がナチのガス室ならぬ高熱空気室となり、道端の自販機のお茶だけが頼りで、がぶがぶと何杯も飲んでも、摂取した水分はただちに体表から蒸発をしてしまうせいか不思議にお手洗いによらずに済み、奇妙なことよと驚き、すぐに、そんな発見に何か意味があるのかと自らを責め、こんなことしか頭に浮かばぬのも老いのせいかとため息、熱暑というものは兎角、人を自虐的にさせることが分かりましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
しかしながら詮ずる所、男子と生まれ、人生いたるところに地獄あり、家にいれば私信開封・携帯検閲・同衾強要・罵倒絶叫の古強妻の「畜生しつこ地獄」あり、会社にいけば、仕事全忘・生意気不遜の社員の「阿鼻ばか地獄」。取引先を訪れれば、お世辞強要・恩着せ千回・処罰値引きなど客の「無限えばり地獄」、目上のじいさんを表敬すれば「自慢」・「繰り返し」・「説教」の老呆三大地獄のそろい踏み。地下鉄の若い女性客からは「あてつけ席移動地獄」さらに「痴情睨めつけ冤罪地獄」などなどきりがなく地獄を見せつけられ、大体、炎暑地獄を歩いているうちにも、「行き先通りすぎ地獄」、「曲がり角一本間違い地獄」、「犬の糞踏付け地獄」、「アポ時間接近・炎暑駆け足地獄」、「訪問相手氏名並びに役職忘れ地獄」、「用件忘れ地獄」など大地獄の中にまた小地獄があるという、地獄の二重構造となり、二重構造というものは地獄に限らず、保温ジャー、下請け、ナプキン、民主党内権力など、とかく暑苦しくできており、まとわりついてなかなか逃れられないものですが、ここで大悟徹底をしてみれば、地獄は炎暑にあらず、妻にあらず、我と我が身こそが地獄であって、地獄が影のように我を慕って離れない、これはすなわち空即是色、色心不二の理で、吾即地獄・地獄不異吾なり、と炎暑が開く我が一生の総括でありました。これからもしばらくは、別府の温泉・地獄めぐりのように、世間地獄めぐりの残余人生を送る次第であります。
投稿者 sap : 20:17 | コメント (0) | トラックバック
2010年08月09日
復讐は我にあり
有川雄二郎
薬師寺で、勘三郎さんの「船弁慶」を見ました。ま、主催者だから当然、見るのですが。
以前、能では友枝昭世さん、歌舞伎では厳島神社で尾上菊之助さん「船弁慶」を主催して、こちらも見たのですが、両方とも知盛と義経という、本来、見も知らぬ武将が、不思議な運命の糸に操られて、果てしなく戦うというまるでギリシア古典の運命悲劇を見るような、悲しく、しかし凛々しく、端正な舞でした。もちろん友枝さんの知盛はゆるぎない意志を表して、菊之助さんの知盛は若々しい戦士の華麗な知盛でした。それぞれ感銘しました。
勘三郎さんの知盛は、違っていました。もっともっと人間の極限に迫る知盛でした。運命の糸に操られてじゃない、自分の意志として、自分の情念から、義経への復讐を誓った知盛でした。頑くなで剛い、狂った感情が、知盛の全身からほとばしっていました。世界が破壊されようが平家を全滅させた義経を殺す、という知盛の執念には、私は思わず涙ぐんでしまいました。復讐の念というのは、人生にとって基本的な、必須の何かであると思いました。
復讐、恨みを晴らす、敵討ちというようなことは、現在でははやりません。親の仇でもなんでも、国が裁くのです。自分で裁いてはいけないのです。裁判官という専門職とは言え赤の他人が、最近では裁判員という全く無関係の素人たちが裁くのです。しかし、専門家とか素人とかいう前に、問題は彼らは当事者でないということです。当事者でない人たちが、当事者の思いを越えて決めていいのでしょうか? そういうことができるのは、一体どういう原理によるものでしょうか?
改悛の情が見えるから義経は執行猶予とか、勝手に決めたら、知盛が見たらなんというのでしょうか? 当の義経はどう思うのでしょうか?
船弁慶に限りません、忠臣蔵でも、曽我ものでも、歌舞伎は復讐か心中がメインのテーマです。西洋でも、「ドン・ジョヴァンニ」とか「ペール・ギュント」とか「ハムレット」、「オセロー」とかオペラもドラマも復讐がテーマのものは多いのです。
それは、復讐が正義という倫理判断だけでなく、復讐は美しいという審美的な判断もあると思われます。エレクトラは復讐に恋い焦がれます。カチカチ山もウサギも仇敵(自分には関係ないのに)タヌキには執拗に、かさねて打撃を与えます。死ぬ時も、ただ死んだり、または皆の幸せを願って死んではいけない。知盛も、ハムレットの父も、お岩も、復讐を誓って死ぬと、魂がこの世から離れないでいる。タヌキもウサギに復讐を誓って死ぬべきだったのだ。ぼんやりとおぼれ死んでいるから、それっきりである。同じ水死でも、知盛と違うところだ。
死ぬに当たっては、人を恨んで死ななければならないな、そうでないと男らしくない、また美しくないな、とつくづく思いました。それで、「こいつをうらんで死んでやろう」という人間を今のうちから目星をつけているのですが、これがなかなか難しい。社員にはそれぞれに恨みはあるが、死んでまで付き合おうとは思わない。あと、恨みを思い出すのは、階段を上がっていく時、前の女性のミニスカートを私が視線で追った、と言い張る見知らぬリュックばばあ、また、次郎の結婚式のとき私をのけものにした元妻、あるいはやや古い話だはあるが、中学生の頃、無実の私を廊下に立たせた担任の野原先生など。しかし、如何にもい卑小だ。
もっと大きな恨みに出会うまで、死ぬに死に切れない昨今である。