2011年07月04日

暑中見舞い

                                     有川雄二郎

向暑の砌、みなさまにはますますご清祥のことと存じ、お慶び申し上げます。

小生など、若いころから団子・瓦礫のように「団塊」と言われ、どうせこいつら十把一絡げ、蟻や油虫など昆虫に等しく、個性なき集団のように言われてまいりましたが、還暦を過ぎたあたりから団塊仲間うちでも、俄然、差異を生じ来たり、現在、多くの同世代は自適と言うのでしょうか、老妻と視線も合わせぬままの内外旅行、猫の額ほどの庭いじり、虫や動物園などつまらぬ写真どりなどで日を過ごしおり、彼らはそういうことのどこが面白いのかは分からないけれど、それはともかく、働かずに過ごしており、これは実に羨ましく、一方、わたしは不思議な巡り合わせでそのようなゆとりが生活になく、今なお労働・営業の日々が続き、企業や官公庁のコンペティションなどが戦場で、広告代理店などの二十代の若者に交じり渡り合い、何の負けてならじ、斎藤別当実盛といってもうつけの若造なんどは分からないだろうがともかく斎藤の故事に従い、カラーリンスで白髪を染め、目の覚めるような赤シャツに純白のズボンの原色若づくりのいで立ち、また、武士のたしなみというよりはあとで陰口をたたかれぬように、加齢臭どめにオーデコロンを湯水のごとく身にふりかけ、プレゼンテーションは真剣勝負、心を引き締め、年寄りの常としてくどい言い回しと、人名・地名など固有名詞が咄嗟に出てこない難点があるものの、敵の企画をけなすときは昂揚して鼻息が荒く、愛嬌も見せなくてはと、エンディングはにんまりと愛想笑いをし、顧客の寵を争う毎日、これも実は米塩の資を求めてのこと故であります。
しかしながら老残の丈夫ぶり、帰宅後も、昂揚した心持は収まらず、非常時のこの折、御製に「国思う道に二つはなかりけり、いくさの庭に立つも立たずも」とあり、匹夫と言えども国恩に報ゆるの時、断然節電の鬼と化し、エアコンを消しテレビを消し電灯を消し、関係ないのは知っていますが携帯の電源も切りガス栓閉め、潔斎して異性を寄せ付けず、暗闇に蒸し布団にくるまって一人寝る夜は、怪しく物狂わしく、疲れきって朝となります。こんなことだと、一体世の中の様子を知るゆとりもなく関心もなく過ごしていますが、たまさか鎌首を持ち上げて世を見渡せばもとよりこれ無慙、被災、原発は申すに及ばず、与党六人組やら菅丞相やら政治など様子も見るも哀れで情けなく、これが末法の世か、末世になると公的なセクターがまず崩落していくそうですがその兆候もきざして、なすすべもなく、汗にまみれて六字の称号を念ずるのみの毎日、みなさまはいかがお過ごしでしょうか?

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2011年02月10日

積善

                                                   有川雄二郎

後生の無事を願って、何かしら善行に励まなくてならないと思う年頃になってきた。今更遅いのかもしれないが、それでも、この年になりもう地獄は嫌だ。もっとも天国や極楽というのはどういうところかイメージもわかず、しかし地獄は何か身近な存在のように感じられ、時折、地獄図絵などをしげしげと眺めて研究を始めているのだが、地獄は閻魔大王と鬼と罪人、3種類しか登場してこないフラットな社会である。閻魔大王は、何もそんな怖い顔をすることないじゃないか、相手は恐れ入っているのだから、と注意をしてあげたくなるのだが、所詮、あのタイプは人の言うことを聞こうとしないのだ。鬼は顔つきが旧妻に似た獰猛奇怪な形相でボディビルコンテストのように筋骨隆々としている。問題は鬼にに対峙する罪人で、地獄三人種の中ではいちばん気のよわそうな顔つきをしている。前世で悪事の限りを尽くしたとは思えぬほど弱々しくまた意気地がない様子。とても鬼一匹にでもかなうすべもないのに、あまつさえ、赤・黄・緑・黒など数匹に取り囲まれ、なぶられ、肢体を千切られ、目玉をくりぬかれ、胴体に金棒をぶち抜かれ、罪人が無力で反抗できないことをいいことに、鬼は散々なことをしているのだ。悪い奴らだ。不思議なことに、罪人はあまり苦しむ様子も見えず、もがいたり暴れたりもしないで、ただ目を細めて無抵抗、鬼のなすがままに、あきらめというより、恍惚、または悟ったような状態の面相を呈し、薄笑いすらしているかにも見え、実に奇妙な構図に見える。しかし、責め抜かれると、人間は恍惚状態になるものなのだ。思い出したがこの図はまぎれもなく20年前、私が旧妻から罵倒折檻を受けていた時の様子で、私はただただ、頭を下げ、時に力ない笑みを浮かべ、ストーブ投げなどの暴力に甘んじ反抗は一切考えず、あの頃、私はまさに地獄図絵の罪人のようだったのだ。さらに比較分析をしてみるに、地獄の鬼は淡々と肉体的暴力をふるっているだけで、金切り声、罵倒、呪い、脅迫などことばの攻撃を罪人にはしていない様子であるが、旧妻は暴力と罵倒が並行し、その点は旧妻より鬼の方がやさしいと言える。また、時局柄でいうと、閻魔仙谷や諸鬼・菅、枝野、福山各氏など民主の鬼になぶられている小沢氏との関係にもこの構図は通ずるものがあり、小沢氏も最近、目が澄んできた。

いずれにせよ地獄は怖い、近頃、気をつけて善行を積むようにしている。ただ、私が小人ゆえに、たまに善を施すと、吹聴し、自慢し、なさざる者をなじり、怒鳴り、その思い上がりの罪には、私がなした微善など吹っ飛んでしまうのだ。例えば、私は月に1,2回、250円くらいの安い弁当を7,8個買い、近所のホームレスの人にあげているのだが、夜なので誰も見ていなく、ホームレスの人もすでに段ボールの中で眠っている様子で、あえて起こすこともないので弁当を段ボールのわきに置いていくのだが、もちろん当人からの感謝の言葉はない。道を歩く人も私の善行に気がつかず、気がついても同類がやり取りしている位に認識で、つまり褒めてくれる人はいない、これが大変不満なのである。仕方がない、翌日会社で社員に褒めてもらおうと思って、仔細を語るのだが、彼らの反応は、「あたし、お金をあげたほうが喜ばれると思う、ねえ、そうだよね」、「250円の弁当なんてあるんですか。なんでそんな安いのを買うんですか? 社長はそれ、食べた事あるんですか?」、「月に1回は少ない。毎日あげなきゃ、だって社長は毎日3回ご飯食べているんでしょ?」、「あたしだって、猫ちゃんに毎日ご飯あげてるも~ん」とかで、話の論点を理解できず、的外れのばかな感想しか言わない。社員は、どこの社員でも同じだろうが、素直に社長の言動に驚き感動するという能力がない。だからいつまでたっても社員なのだ。

そこで、いっそう善行をつむことにしました。近々、ホームページに発表しますが、小社は3月26日に、紀伊・那智大社と長崎・大浦天主堂の2か所で、同時に、無料の文化イベントを開催します。この無料という点が今回の論点の中心となるので、注目をしてくれたまえ。無料ということは、偉いと思う。思わない人もいるかもしれませんが、私は偉いと思う。さらに2か所同時、というのがすごい善行だと思う。
まあ、実を言えば、これは何も善意とか、公共心とか、ボランティアとかそんなことから始まったわけではなく、ま、あてが外れた、とか、計算違い、思い違い、とか、行きがかり上とか、いろんなこと事があって、無料になりました。ひとことでいえば、破れかぶれで、ということになりますが、善行をすると、どうも、損した気分になるのですね。不思議ですね。


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2010年12月28日

朦朧の新春

まどろみて 元日の午後の 寒さかな

年をとると加齢臭が増すだけでなく、忘却力も増し、買い物でも10品買うべきを、一つ二つしか思い出さず、メモに書いても書いたこと自体を忘れ、まれにメモしたことを覚えていても、メモのありかを忘れてしまう。仕方がないうろ覚えの一つ二つを買い、しかしレジでお釣りを忘れ、あろうことか買ったものも忘れて、これじゃ店にただ金を置いてきただけの話。話もそうだ、自慢話、駄ジャレ、小言など、同一人物に対して繰り返し、相手が既に聞いた旨を申し出ないときは5回は繰り返す。現在、私の忘却力は次のステージに達し、今の自分が、そもそも不幸か幸福かが分からない状態。よく考え抜いてみると、そう、不幸なのだ、年末に凶々しいことが起きたんだ。しかし待てよ、そのあとそれを打ち消すようなハッピーなことがあったはずだが、それが何なのか思い出せない。勘違いかな、じゃ、とりあえず不幸なんだな、私は、それではやけ酒にするか。それより、このようにダラダラと文を書いているが、今書いているのは何だろうか、酒の上の失態の謝罪を書いている気もするが、子供への訓戒をのような気もする、あ、そうか、暑中見舞いを書いているのか。
社員は私が忘却爺になったことをいいことに、「社長は了解したじゃないですか」「立て替えた昼飯代、返してください」「今月の給与、貰っていません」と私を嬲るのだが、彼らに良き未来はないだろう。それはさておき、やがて、生きているか死んでいるかも忘れ、これすなわち解脱ということ、めでたきこと限りなし。

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2010年08月24日

残暑見舞い

                                               有川雄二郎
街に出れば炎暑地獄の日々、初老の身に外回り、とぼとぼと歩いていくと、道全体がナチのガス室ならぬ高熱空気室となり、道端の自販機のお茶だけが頼りで、がぶがぶと何杯も飲んでも、摂取した水分はただちに体表から蒸発をしてしまうせいか不思議にお手洗いによらずに済み、奇妙なことよと驚き、すぐに、そんな発見に何か意味があるのかと自らを責め、こんなことしか頭に浮かばぬのも老いのせいかとため息、熱暑というものは兎角、人を自虐的にさせることが分かりましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
  しかしながら詮ずる所、男子と生まれ、人生いたるところに地獄あり、家にいれば私信開封・携帯検閲・同衾強要・罵倒絶叫の古強妻の「畜生しつこ地獄」あり、会社にいけば、仕事全忘・生意気不遜の社員の「阿鼻ばか地獄」。取引先を訪れれば、お世辞強要・恩着せ千回・処罰値引きなど客の「無限えばり地獄」、目上のじいさんを表敬すれば「自慢」・「繰り返し」・「説教」の老呆三大地獄のそろい踏み。地下鉄の若い女性客からは「あてつけ席移動地獄」さらに「痴情睨めつけ冤罪地獄」などなどきりがなく地獄を見せつけられ、大体、炎暑地獄を歩いているうちにも、「行き先通りすぎ地獄」、「曲がり角一本間違い地獄」、「犬の糞踏付け地獄」、「アポ時間接近・炎暑駆け足地獄」、「訪問相手氏名並びに役職忘れ地獄」、「用件忘れ地獄」など大地獄の中にまた小地獄があるという、地獄の二重構造となり、二重構造というものは地獄に限らず、保温ジャー、下請け、ナプキン、民主党内権力など、とかく暑苦しくできており、まとわりついてなかなか逃れられないものですが、ここで大悟徹底をしてみれば、地獄は炎暑にあらず、妻にあらず、我と我が身こそが地獄であって、地獄が影のように我を慕って離れない、これはすなわち空即是色、色心不二の理で、吾即地獄・地獄不異吾なり、と炎暑が開く我が一生の総括でありました。これからもしばらくは、別府の温泉・地獄めぐりのように、世間地獄めぐりの残余人生を送る次第であります。

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2010年08月09日

復讐は我にあり

                                              有川雄二郎

 薬師寺で、勘三郎さんの「船弁慶」を見ました。ま、主催者だから当然、見るのですが。
以前、能では友枝昭世さん、歌舞伎では厳島神社で尾上菊之助さん「船弁慶」を主催して、こちらも見たのですが、両方とも知盛と義経という、本来、見も知らぬ武将が、不思議な運命の糸に操られて、果てしなく戦うというまるでギリシア古典の運命悲劇を見るような、悲しく、しかし凛々しく、端正な舞でした。もちろん友枝さんの知盛はゆるぎない意志を表して、菊之助さんの知盛は若々しい戦士の華麗な知盛でした。それぞれ感銘しました。
 勘三郎さんの知盛は、違っていました。もっともっと人間の極限に迫る知盛でした。運命の糸に操られてじゃない、自分の意志として、自分の情念から、義経への復讐を誓った知盛でした。頑くなで剛い、狂った感情が、知盛の全身からほとばしっていました。世界が破壊されようが平家を全滅させた義経を殺す、という知盛の執念には、私は思わず涙ぐんでしまいました。復讐の念というのは、人生にとって基本的な、必須の何かであると思いました。
 復讐、恨みを晴らす、敵討ちというようなことは、現在でははやりません。親の仇でもなんでも、国が裁くのです。自分で裁いてはいけないのです。裁判官という専門職とは言え赤の他人が、最近では裁判員という全く無関係の素人たちが裁くのです。しかし、専門家とか素人とかいう前に、問題は彼らは当事者でないということです。当事者でない人たちが、当事者の思いを越えて決めていいのでしょうか? そういうことができるのは、一体どういう原理によるものでしょうか?
改悛の情が見えるから義経は執行猶予とか、勝手に決めたら、知盛が見たらなんというのでしょうか? 当の義経はどう思うのでしょうか?
船弁慶に限りません、忠臣蔵でも、曽我ものでも、歌舞伎は復讐か心中がメインのテーマです。西洋でも、「ドン・ジョヴァンニ」とか「ペール・ギュント」とか「ハムレット」、「オセロー」とかオペラもドラマも復讐がテーマのものは多いのです。

 それは、復讐が正義という倫理判断だけでなく、復讐は美しいという審美的な判断もあると思われます。エレクトラは復讐に恋い焦がれます。カチカチ山もウサギも仇敵(自分には関係ないのに)タヌキには執拗に、かさねて打撃を与えます。死ぬ時も、ただ死んだり、または皆の幸せを願って死んではいけない。知盛も、ハムレットの父も、お岩も、復讐を誓って死ぬと、魂がこの世から離れないでいる。タヌキもウサギに復讐を誓って死ぬべきだったのだ。ぼんやりとおぼれ死んでいるから、それっきりである。同じ水死でも、知盛と違うところだ。

 死ぬに当たっては、人を恨んで死ななければならないな、そうでないと男らしくない、また美しくないな、とつくづく思いました。それで、「こいつをうらんで死んでやろう」という人間を今のうちから目星をつけているのですが、これがなかなか難しい。社員にはそれぞれに恨みはあるが、死んでまで付き合おうとは思わない。あと、恨みを思い出すのは、階段を上がっていく時、前の女性のミニスカートを私が視線で追った、と言い張る見知らぬリュックばばあ、また、次郎の結婚式のとき私をのけものにした元妻、あるいはやや古い話だはあるが、中学生の頃、無実の私を廊下に立たせた担任の野原先生など。しかし、如何にもい卑小だ。
 もっと大きな恨みに出会うまで、死ぬに死に切れない昨今である。

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