わがままな老人

有川雄二郎

私も随分、年を取ってきた。すでに老境にいる。しかしまだ働いている。
本当は引退したいのだが、蓄えがなく、食っていけないので、やむなく恥をさらしながら、若い者に交じって働いているのである。
そんなことはともかく、若い者にまじっているので働くのは、なかなか骨の折れることである。私が一番気を遣うのは、若い人たちに私が迷惑をかけてないかという点である。
若い人たちは、私に対して言いたいことがあっても、年長者に対する遠慮があって、なかなか言えないのではないか。それだけに老人の私たちが自ら律して、いささかの迷惑もかけてはいけない、そう思うのである。

なぜこのようなことを言い出すかというと、最近の老人たちは、周囲の人たちの迷惑を考えず、自分勝手の行動をするのを、一度や二度ではない、かなり頻繁に見かけるからである。同年代の人たちのことを悪く言うのは気が進まないが、どうも、最近の老人にはわがままなが多いように思える、特に人目にさらされる公共の場において目立っている。。
私の世代は、今と違って、幼少時に学校や家庭で公徳心を厳しくしつけられてきた。授業中おしゃべりをしたり、給食を残したり、下級生をいじめたりすると、先生から厳しくとがめられ、場合によってはビンタや、竹の定規ではたかれたり、廊下に立たされたりする。体罰を喰らっても、それは本人がいけないから、とされてきた世代である。そうした、私と同世代の老人たちが、公共の場で、傍若無人にふるまっているのは、実に気恥ずかしく、情けなく、見苦しいものである。悪意はないのだ、大目に見てくれ、と甘えた気持ちでいるのかもしれないが、無邪気で許されるのは五歳までのことだ。齢七十に達する人間は、その行動には、よし、国民の範となるべしとまでは言わないとしても、おのずと節度があってしかるべきだ。

具体的に言おう。老人が公共の場で迷惑をかけるのは二つの類型が見られる。
「歩行」、「忘却」の2パターンである。
「歩行」は、老人が天下の公道を歩いている時を指すのではない。よたよた歩こうが、とぼとぼ歩こうが、それは、老人らしい風情とも言えることなので、構わない。

そうでなく、狭い通路を、多くの人が連なって歩く場合である。飛行機の機内に搭乗する際とか、新幹線に乗り込んで通路を歩くときなどである。
老人の後ろについて歩いていると、彼らは、なぜか、突然立ち止まるのである。何の予告もなく、立ち止まる。後続の人間はつんのめったり、前の老人にぶつかるのを避けようとして、通路横の座席に倒れ掛かったりする。通路で、急に立ち止まるのは、老人だけだ。本人は、それが、後続の人たちにどれほど迷惑をかけているのか、気が付かないようである。
また、老人の歩行といえばリュックはつきものだが、リュックを背負った老人が通路を進みながら、突然、振り返る。これも周囲に無通告であって、ピボット回転をするから、背負っているリュックも同時に回転して、周囲の人たちを薙ぎ払うのだ。自分以外の人たちのことを考えないのだ。
それから、遠くにいる仲間に、大声で呼びかける。これは女性老人が多いが男性老人もいる。列車の入口のドアを開けた女性の老人(つまりお婆さんが)が、10列も先の連れに、「だめだめ、シャケのおにぎり売ってなかったのよ。昆布にしたけどよかったー? あたしはシャケより好きなのよー」、とキオスクでの昼飯の調達の成果を、大声で報告をする。どう考えても緊急性があるとは思えない内容を、彼女たちは一刻も早く、仲間に教えてあげたいという誘惑にかられて、遠方から、したがって大音量で伝えようとするのだ。ニコニコ笑いながら怒鳴っているところを見ると、自分を童女になぞって、傍の人からはかわいく見えると思っているのかもしれないが、無論、そんなことはない。さらに、童女に擬した老女は、車内の通路を進みながら、最初の報告に伴う付帯状況、例えばほかにキオスクに並べられていた食品、その中には自分の孫が嫌いなものをあったという事実、自分の最終食事時間及び食欲の回復状況など歩きながら、大声を出して仲間に伝える。これは、車内の客全員に、自分たちの置かれている状況を「丁寧な説明をし」(私のかなり嫌いな言葉であるが)、「情報を共有する」(私が全く嫌いな言葉であるが)こと目的にしているのだろうか?
男性老人は大声遠距離会話は、女性とコンテンツがやや異なる。「確認」が大声の目的である。

男性老人客の数人の行列が車内の通路を通る、ふと通路の先頭の老人は振り返り、最末尾の老人へ、確認のための、大声が発せられる(なぜか、老人はすぐ後ろの人にではなく、再末尾の人に確認を求めるのだ)。「おーい、この車両でよかったの?」。男性老人はあらゆることを、大声で、朋輩に確認する。座席番号の確認、ボックスの中での座りポジションの確認、車内販売で買うのはビールか焼酎かの確認、金を払う意思表明と支払者決定の確認、支払者への謝辞と冷たいビールはいつ飲んでも美味であり、自分はいま幸福感に浸っていることの確認など。これらの確認作業は、男性老人(つまりお爺さんの)の特有の胴間声で行われるのだ。私を含む、これらの老人の胴間声を無理やり聞かされる周囲の人たちは、彼らの内部情報を知りえることの喜びはしもなくなく、また彼らの開放的な性格に共感を覚えることもなく、ただ老人の不快な声質と不快な音量に悩まされるだけなのだ。

彼等は公共空間とは何かということが分かっているのだろうか?

 

もう一つの、老人からの迷惑、それは忘却である。
これも、一人で、勝手に、自己完結するなら、何を忘れても、それは構わない。三日前の夕飯のおかずでも、さっきまでしていた眼鏡をどこに置いたのかでも、銀行の暗証番号でも、うまいカレー屋の店の名前でも、厚生年金手帳をしまっておいた場所でも、[article]の意味でも、小学校の時の担任の名前でも、自分のいとこの名前でも、自分の母親の名前でも、自分の名前でも、一人の老人が何を忘れても、世の大勢に影響はない。
困るのは、老人が、他人との約束を平気で忘れることである。
亡くなった観世榮夫氏は、劇場を間違ってしまって、舞台を休演したという話で、さすが大能楽師、小さなことに拘泥しない芸術家の鷹揚な心持に尊敬の念も一層深くなるのであるが、私の身の回りにいる、ただの爺が、約束の場所、日時を忘れるのは、称賛できないばかりか(当たり前だが)、可愛くもないし、苛立ちを覚えるのみである。
約束の場所に現れないので、電話をかけると、決まって、「あれーっ、約束したの、明日だったんじゃない? 僕の手帳に、ほら、15日の土曜と書いてあるもん。君が間違えてるんだよ。今日は14日だよ。いい、いい、君だけじゃない、年をとるとみんなそうなるのだから、気にしなくてもいいんだよ。じゃ明日ね。ドンマイ、ドンマイ」ととぼけたことを言う。自分はさておき、私を年寄り扱いして(事実ではあるが)、勝手なことをいうのだ。そもそも、明日は16日であって15日ではないし、しかも15日は金曜日であって土曜ではないのだ。
このようなボケ老人と、電話のみで約束するのは大変危険なので、あとで証拠になるよう確認のメールとかファックスを相手方に送り付けることにしている。
どっちが忘れているのか、動かぬ証拠があるのだ。
「いやいや、間違っているにはそちらだ。ショートメールを確認して。先週の金曜日の18時30分ごろに私は確認のメールを送ったはず」とこちらの記憶力は少しも衰えていないから、厳しく指摘をする。
確認のためにしばらく間があり、やがて「むぐっ」とか奇妙な発声があり、「あー、そのようだね」、妙に落ち着いた声で答える。「困るんだよね、僕も時間を無駄にしたくないしね」と追及すると、突然開き直る。
「だって忘れたんだから仕方ないじゃないか」。
このようなことは若い人は言わない。
恥を知れ、と言いたい。忘れたから仕方がないで済めば、警察もいらないし、裁判所もいらない、契約もいらないし、そもそもコミュニケーションもいらない。そういう厚顔無恥な言葉を発するのは老人だけである。これも、彼らがいかに公共の中でふるまう自覚がないことの証左である。

老人のわがまま、迷惑な言動に、私は日常茶飯事的に接しているので、若い人にいささかの迷惑をかけないよう、私は神経質なくらい気をまわしている。そのせいで、私は若い人と混じって働いていても、トラブルなどないし、あえて言うが、尊敬心すら抱かれているようである。特に賞与を支給した後、3時間くらいは、若い人からリスペクト受けているな、と肌で感じるのだ。
そんなわけで、私は「年寄りだからと言って迷惑をかけてはならない」という精神を貫いていて、若い人たちとは非常に良い関係でいる。

もっとも大変残念なことに、若い人たちの、ごく一部であるが、思いやりのない人というか、心の貧しい人たちがいて、そんな人たちとはうまくはいかない。これも現実だ。向こうが悪いのだから仕方がないことだが、いわゆる、「身に降る火の粉は、払わなければならない」のだ。
例えば、私が新幹線に乗って、自分の席を探すとき、ふと席番がわからなくなる時がある。ついさっきまでは覚えていたのだけど、加齢による短期記憶力の減退(海馬がつかさどる)があって、これは自然現象であって誰を責めるわけこともできないことである。確か、「6」という数字が絡んでいた気がするのだが、まてよ6「番」でなく、6「号車」だったっけ? そうであるならば引き返して6号車に戻らなければならない。いくら考えてもわからないから、チケットを見直そうとするのだが、今度はチケットが見当たらない。
ズボン、上着のすべてのポケット、ワイシャツのポケット、お財布の中、カバンの隅々、すべてを探してみるが、どこからも出てこない。この不条理な状況に対して、「切符は必ず出てくる」という座右の銘ともいうべきことわざで思い出し、決して慌てることのないように努める。努めるが、ことわざは思い出しても、チケットは出てこない。出てこないものは出てこない。
そんな時、私の後ろに並んでいる若い者が、きわめて冷たい態度をすることがある。「ちえっ」とか「糞っ」とか、聞こえがよしに私にプレッシャーをかける。私と座席の間の狭い空間を無理やり通り抜けようとする。いい若い者がなんでそんなに意地が悪いのか? 列が滞ったとしても、別に新幹線の出発が遅れるわけではないのである。1分早く座れるのかもしれないが、それがどうしたと言うのだ。私に恥をかかせたいのか? そういう思いやりもない人には、若いからと言って私は容赦をしない。こうなったら、意地でもゆっくりと探す(チケットは携帯電話の折りたたんだ間から出てくる時が多い)。
それから仲間と一緒に乗る時もある。仲間が年を取ってきて、耳が遠くなってきているので、なるべく大きな声を出して話してあげる。また仲間同士で旅をするのが嬉しいので、冗談を言い合って、腹の底から笑う時もある。若い人たちの一部には、それが気に食わないのだ。うるさいなー、と露骨に嫌な顔をして、こちらをにらむまた、正義漢を装って「少しは、周りの人の迷惑を考えてください」と言ってくる猪口才な青二才がいる。また、車掌に密告をしておいて、知らん顔してすましている卑劣な少女たちがいる。
考えてみてくれ給え。我々の声がうるさいといったって、所詮は年寄りのしわがれ声。新幹線や飛行機の発する音量に比べば、屁にもならない音量である。大騒ぎすることはないのである。
そもそも、新幹線は公共空間である。大勢の知らない人間が乗り合わせているのである。自分の感覚のにを正しいこととしてほかの人間を、その基準に合わせようと強いる。そんな勘違いをしている連中が若者にもいる。先日私が新幹線の中で(隣は空席)携帯でショートメールを打っていたら、後ろ斜め若いカップルが、私のメールを打つ音がうるさいと、車掌に告げ口をした。携帯からのかすかな音、ピッ、ピッというのがうるさいと言うのである。車掌が、「他のお客様がご迷惑ですから、おやめいただけますか?」
と言うので、「そんなことは貴方を介さなくとも直接話し合うからいいです。どなたですか? うるさいという方は?」と聞いたら、「いえいえ、それは教えられません」と車掌が言う。私、「それでは問うが、この新幹線の騒音の中、携帯のピッピッ音が聞こえますか?」。車掌、「えー、聞こえます」。私、「それではこれから何回かボタンを押しますが、何回押したか、その回数を答えてください」。車掌「………(無言)」。私、「聞こえないでしょう。しかし聞こえるかどうかより、列車の中は公共空間、天下の大道であることを認識してください。各自が自分の主張を貫けるのは、せいぜい、シートの60センチ四方。それ以外の空間は、何をしても、法に触れない限り許容すべき。他の客の行動を自分の感覚に合わせろ、それに、うるさいというなら、販売ワゴンの売り声や案内アナウンス、新幹線の走行騒音のほうがよほどうるさい。しかしそんなことに文句を言ってはなりません、ここは公共の場であるからです」。車掌、無言のまま去ろうとする。私、「逃げるのですか?」。車掌、「いや、新大阪で交代なんです」。
私、「交代なんかやめて、この議論を続けようではないですか? JRにとっても必要な認識です」。しかし、車掌は去っていった。
若い連中は、無言の行を続けるのが新幹線の正しい乗り方と思っているかもしれないが、車内は、修行の場ではないのだ。旅行は、つまるところ、物見遊山なのだ。楽しく、大いに話し、大いに笑う。目くじらを立てて、「うるさい」などと言わないでほしい。公共の場とは何かということをわきまえてほしいのだ、若い人たちにも。

目くじらで思い出したが、若い連中の一部に、私が時々物忘れをするのに、ひどくとがめだてをする人がいるが、まったく、心の狭い人たちである。たかが、約束の時間を2時間か3時間、または1日か2日、間違えたとからいって、「もうろくじじい!」とか「ボケましたな」、「これで何回目になりますか、時間の間違い」とか、皆の前で、ひどい言い方をするのだ。つまり、これはつい、うっかりした、というやつで、悪意はないのだ。それをしつこく、鬼の首でも取ったように大げさに騒ぎ、ねちねちと責めてくる。いくら、「ぼけっ」と罵られても、記憶にないものないので仕方がないのだ。
また、私への約束のメールを取り出したり、「一緒に喫茶店に行って、ほら、コーヒーががなかなか来なくて、あなたがウエイトレスに注意した時があったでしょう。そのとき、『次回に資料を持ってきてください、お願いします』とぼくが言ったでしょう。そしたら、あなた金色の手帳にメモしたじゃないですか?」などと微に入り約束した時の状況を教えて、思い出させようとする輩もいる。私は、根が正直でこだわらない性格だから、「ああ、そう言われればそうだったねー」とあっさりと認める。
「そうでしょう? 困るんだなー、簡単に忘れられては?」と攻めてくれるが、相手に言われたから思い出したんであって、言われなければ思い出さないのだから仕方がない。
彼らは、若いくせに底意地が悪いのだ。あっさり笑って許すということができないのか。偏狭な性格で、若いうちからこのようなことでは、年を取ったらどんなに悪い性格になるかと心配になるくらいである。私は、そんな若い人たちと付き合うのは御免こうむりたい。

このような一部の若い人たちとはうまくいかないが、このような人たちは例外的な存在だ。私は、これからも大半の若い人たちの気を遣いながら、うまくやっていける自信がある。また、わがままな老人たちは、大いに自分のわがままな言動に慎み、反省してもらって、円満に若い人たちとつきあっていけるように、大いに努力が望まれるのだ。

 


 

法律と屁理屈                                   

                                                  有川雄二郎
三島由紀夫は、「刑事訴訟法の緻密で完全なロジックには、バロック音楽のような構成美を感ずる」と何かに書いていた。法律は論理的であり、整合され、法の体系のもと、聊かの矛盾も、破綻もないようにできている、それが法律だ、と思っていた。
ほかの社会科学、経済学や政治学や社会学などの学問が、人間の情念が織り成す混沌とした社会を、何とか解明しようとしても、もとの人間があまりに混沌しているので、分析を試みてもすっきりとした解明ができない。経済学が如何に精密な理論を打ち立てても、ことごとく経済の実態から外れていく。ロジックは現実と合わない。
そこへ行くと、法律は、現実の状態とは別に、人為的にある社会を構成する法律を決めていく。法律が現実を規定して、混沌とした人間社会を切りさばいていく。ことに刑法はすなわち「お上」の裁きだから、権威を高めるために、積極的に緻密に論理構成して矛盾ない体系を作っていく。三島由紀夫の言うように、完璧な、美しいまでの構成になっている、はずと思っていたが、いろいろ考えてみるにそうとも思えない事例が、特に刑法関係でも多く、互いに法律は矛盾していると言わざるを得ない点が多い。
私は、法律を学んだことはなく(三島由紀夫は法学部出身)、素人が何を言うか、との誹りは甘んじて受けるとして、明らかに矛盾していると思われることを、刑法関係の事柄で上げてみたい。

1.法務大臣の死刑執行命令がなされない。
刑事訴訟法475条には、法務大臣は6か月以内に、死刑が決定された被告に死刑の執行命令をしなくてはならないと、明記されている。ところがほとんどの場合、6か月以内にされることはない。死刑反対論をはじめ、この規定には他の行政法と同じように罰則がないとかいろいろな議論はあるが、刑事訴訟法に反していることに変わりはない。時の法務大臣が「死刑命令を出したくないから」で済む話ではない。はっきりと6か月以内と規定されているのだから、そうしなくてはならない。それが嫌なら、法律を変えるのが本筋の話。
また、三審制の中、陪審員や裁判官が情理を尽くして得た結論を、法務大臣が一存で覆していいのだろうか? 最高裁判所の上に、法務大臣は立つつもりなのだろうか?
ともかく法務大臣が法律を破っており、それが放置されているという現実は変わらない。

2.仮釈放  付.改悛の情
こちらは刑法25条に規定がある。服役態度が良かったり、改悛の情が見えたりすると刑務所長などが仮釈放できる。また第66条では、裁判時に、犯罪の情状に酌量すべきものがあるときは、その刑を減軽することができる(半減までできる)。

この制度にも大いに疑問がある。すでに犯した罪を、事後の行為で打ち消す、特にいえば犯罪行為や被害者と何ら関係のない、事後の「改悛の情」「服役態度」が良ければ罰を減ずるということがおかしい。また服役でいえば、服役態度以外の善行、例えば、難民への寄付とか、平和を祈っての写経とかではNGで、もっぱら看守にとって扱いやすい言行のみが、刑罰の軽減の基準となるのは不合理だ。
「改悛の情」もおかしい。「改悛」の定義も定かでなく、改悛の期間、改悛の判定者、改悛の基準、すべて不明である。なんで改悛した、とわかるのか?
私事で恐縮だが、私は子供のころは担任教師に、長じては妻にまたは上司に、数多く改悛を重ねてきたが、今考えても、本当に自分が悪いと思ったようであっても、しかし次の瞬間、だって仕方ないじゃないかよ、という自愛の念も浮かび、しかしこの場はしのがねばならず、とりあえず改悛しておくことが多かった。改悛は伸びたり縮んだりするものであり、あてにならない。
そもそも自己を正当化するというのは生物の本義であり、微生物から霊長たる人間に至るまで、本源的には(母が子を守る以外は)身を挺してまで改悛することはないのである。
さらに根本的に言えば、改悛したら、なぜ、罰を軽くするのかという法理もわからない。本当に改悛したらば、潔く罰を受けようという気になるのが本当の改悛ではないか。
大岡裁きにあったが、子供が火付けなどの重罪を犯したが、子供ゆえになぜそれが重罪にあたるかわからない、そこで数年かけて子供を教育し、自分がしたことが重罪にあたる、あー悪いことをしたと理解させ、本人も腑に落ちて、そののち、死刑に処したという話があったが、こちらの方が本筋のような気がする。
また、小泉八雲の短編「停車場にて」では、捕縛した巡査殺しの犯人を、殺された巡査の未亡人と背負われた遺児に駅頭で対面させる話である。その場を見ようという群衆の中で、警官が遺児に、「この男こそが父親を殺した男だ」と見せつける。遺児は何も言わず、目に涙を溜めながら、しかし男を凝視する。数瞬ののち、遺児の視線に耐えられなくなった犯人は、号泣する。「すいません、坊ちゃん。私はうらみがあってお父様を殺したのではありません。お父様に盗みを見つけられて、怖くなって殺してしまったのです。許してください。
私はこれから死刑になって死にます。死んでお詫びをします。」その場に居合わせた群衆は黙り込み、この厳粛な改悛に、警官も含めて涙を流す、そういう粗筋だ。そこで考えるべきなのは、警官も群衆も、もちろん遺族も、犯人の改悛に、どうしようもない人間のさがに、運命に、愚かさに、深いため息をつくのだが、厳粛にはなっても、だれも犯人を減刑してやれ、とは思わない。それが日本的な伝統ではないだろうか? 海彦と山彦も、ヤマトタケルと戦って敗れたイズモタケルも、忠臣蔵でも同情はあっても、法を破ったものの制裁を軽くすることはない。
 改悛すると許すという思想は、仏教にはある。鬼子母神も悪人正機も蜘蛛の糸も、ともかく、どんなに悪いことをしようが、どこかいいとこあれば許してやろうか、という鷹揚なところが仏教にはある。キリスト教はどうか? 詳しくはわからない。カソリックには懺悔室などがあり、罪を告白するシステムは備えているのだが、よく聞いてみると神父は「神に許しを請いなさい」とは勧めるが、改悛すれば神が許す、とは言っていない。また「最後の審判」などという言葉もあるくらいだから、なかなか簡単には許してもらえそうもない。プロテスタントでも、カルヴァンの予定説では最初から救われる人間と救われない人間が決まっているらしい。救われない人間は、いくら改悛してもNGなのだろう。つまり、改悛すれば罪一等減ずるというのは、そんなに普遍的なしきたりではでないのだ。イスラムも厳格で、執行猶予すらない。
改悛が許されるのは、刑罰に対する社会的な役割の、現代日本独特の思想があると思う。刑罰の目的を法曹関係者に聞くと決まって、「報復(正義)」「社会秩序(安定)」「教育」であるという。最後の「教育」が問題だ。これは犯人を教育しようということであるが、アメリカではそういう目的はない。アメリカの教科書にはretribution(報復)、stability(安定)までは同じだが、最後の一つは犯人の「教育」ではなく、犯人のincapability(無力化)である。犯人が悪いことをできないように、刑務所に入れて隔離するのである。更生を願うわけではないのだ。日本でも、公民権停止、免許剥奪などでは無力化という観念も取り入れられているけれど、刑務所に入れるのは本人の教育のため、ということなのだろうが、これは世界一般とは言えない考え方だ。おそらく、明治以後、「廃仏毀釈」とは反対に、教育・改悛が刑法の思想の中にはいってきたのだろう。

さらにさらに、そもそも刑罰とは既に行ったことに対する制裁であって、過去の出来事を改悛という事後の出来事で帳消しにするのは、過去に不遡及の原則と真っ向から対立し、そもそも法律の概念に反する。つまり俗にいう「ごめん、で済むなら警察はいらない」とか「泥棒をしても返せば済むという問題ではない」過去の罪と罰が、あとからの行為により変更されるのは理に合わない。

3.心神喪失、心神耗弱は罪を減免する
精神病とか泥酔とか一時的な錯乱とか、ともかく、平常人の理性が働かないときは罪を減免してやるという法の制度である。これもおかしい、論点は二つある。
理性とは、大脳生理学的に言うと前頭葉前野にある「意思」「判断」をつかさどるところにある、いわゆる「意識」であって、ここがいかれてれば悪いことをしたとしても仕方がないじゃないか、という理屈である。しかし、ここの理屈は正しくない。最新の脳神経医学の解明によれば、前頭葉前野(意識)からの指令で、運動野が刺激を受けて、手足の筋肉に指示が行き、相手を殴ったりするわけではないのである。意識より先に、運動野が手足に命令をする。
道行く相手がガンをつける、その情報は視神経から大脳に入り運動野に行き、前頭葉前野にも行く。運動野はその情報を受けて、過去の記憶、その時の心身の状態など処々の情報も参照して(0.01秒くらいで)、最終的に右手に指令を出す、「張り倒せ」と。運動野は「生意気じゃねーか、張り倒してやれ」とは思わない。運動野の判断は、他の人間の行為すなわち、胃液を出すとか、ぶらぶらと歩くとか、瞬きするとか、と他のほとんどの人ガンの行為と同じように、意識には上がってこない。無意識の行為である。
運動野は手足に指令するのと同時にその情報を前頭葉前野にも送る。そこで意識は初めて自分の手が殴ろうとしていることを知るわけだが、意識は自分が指示した行為であると解釈する(意識が後、運動野が前なのは、MRIなどで脳内発火の状況を見て、確認できる)。そして「生意気じゃねーか、張り倒してやれ」と意識するのである。つまり意識は、能の各分野が行ったことを後から追いかけて、解説をして意識する、いわばスポークスマンのようなものである。この「意識」は、自分の意志で行ったように錯覚するだけでなく、自分の行為に理屈をつけて正当化しようとする。ちょうど中国外務省の女性スポークマンのように。「あいつが先にガンをつけてきたんだ。だから生意気じゃないかと思い、張り倒したんだ」と主張するのは、運動野ではなく、この「意識」なのだ。
意識がなぜ中国政府スポークスマンのように,自己の行為を一貫とした自分の
意思によるものであり、また正当化するかというと、どうもそうしないと自分という人格が統一のない、バラバラな情意の寄せ集めになってしまうかららしい(中国スポークスマンの役割もそこにあるのかもしれない)。左脳の運動野の病気のために、右手が動かなくなってしまった患者に、医師が「右手を動かしてみてください」という。今までと違って、「意識」の力では動かない(これも錯覚であるが)。そこで「意識」は言う、「疲れてしまって、動かしたくない」、「ほら、今、動かしたよ。あなた見てなかったんでしょ」、「ほかの先生から、動かしてはいけないと言われているの」などなど。「意識」は今まで自分の意志で動かしていた(と錯覚して)と思い込んでいたので、動かすことができないことは認められない。自分の一貫性と正当性を主張するためには、嘘でも言うのだ。患者のなかに、動かない自分の手を、「これは私の手ではありません」とまで言うのだ。
 意識にかかわらず、ほかの脳の部位より指令が発せられているのが人間の現実である。意識がかかわらない自分の行動を、「ふと…」「知らず知らずのうちに…」「気が付いたら…」「我に返ってみると…」「思わず…」「不意に…」「無意識のうちに…」「振り返ってみると…」「覚えがない…」などいろいろな表現をしているが、実は、すべての行動が、「ふと…」なのである。ただ、大部分は、
「気が付く」までの時間が、0.01秒と短いので意識と動作はシンクロしているという錯覚に陥る。
つまり、意識がなくとも(例えば眠っているときでも)、担当する脳の部位が指示をし、呼吸もすれば、寝言も言えば、手足も動かす、記憶もセットする。音響のセットに例えれば、脳の各部分はパワーアンプ、ビデオデッキ、CDプレイヤー、スピーカーシステムなどと同じようにモデュール化された機能であり、視覚野、聴覚野、運動野、長期と短期の記憶、感情、などの脳の諸機能の中で、意識というのはオーディオでいえばデジタル表示のようなもので、機械の状態を表示はしても、機械に命令する役割ではないらしい。
 
 なのに、法律は、行為の真犯人の運動野を不問にして、あてにならない意識が正常に働いていたか、どうかで罰を決める。
 たとえ泥酔しようが、病気か何かで意識が正常に働かなくとも、少なくとも運動野は「殴れ」と右手に命令をしているのだ。運動野が命令しなければ右手は動かない。これは蛙の足の電気実験でも立証されていることだ。運動野は免責にするのが刑法の考えである。
 
後追いのスポークスマン、「意識」を罰するのは、被告を罰せずして弁護士を罰するようなものであり、理に合わないのである。また意識の混濁などの場合、刑を減免するのは真犯人を間違えていると言わざるを得ない。

もう一つ、心神耗弱には矛盾がある。
深酒による心神耗弱は、一般的に刑の減免の理由になるのに、道路交通法だけは飲酒による過失致死などは、刑の減免どころかかえって刑が重くなる。
大体、人身事故を起こさなくとも、飲酒して運転するだけで罰せられる。一般の犯罪では減刑になるのに、車を運転している場合は刑が重くなる。
酒酔い運転をする人は、意識としては「たいして酔ってないから平気だろう」と高をくくって運転するのだが、意識はそう思っても、運動野や視覚野はちゃーんと酔っぱらってしまっていて事故を起こし、そんな時、道交法だけは運動野・視覚野の不届きを罰する。

こうグダグダ述べてきて、何が言いたいのか? 何もない。理屈をこね回すのが好きなのだ。ただそれだけである。

 


 

質問の限界

                                                     有川雄二郎

マクベスは自分の運命を魔女の大釜から生じた悪霊にいろいろと問い、「マクダフに気をつけろ」「女から生まれた人間に、お前を殺せるものはない」「ダーナムの森が動き出すまでは安全だ」と三つの答えを引き出して、安心した。そこで、もうひとつの不安であるバンクォー、その子孫がマクベスに代わって王になると言われたバンクォーについて、「バンクォーの運命はどうなるのだ?」と質問した。すると魔女たちから「お前は質問が多過ぎる」とたしなめられ、答えを得ることができなかった。質問は三つまでが相場なのだ。

質問ではないが、依頼・お願いのたぐいも三つまでが相場と言える。
西洋の話に、晩飯も、おかずがなくて、ひと切れのパンしかないような貧しい老夫婦に神様が現れ、「貧しき者たちよ、願いを三つまで叶えてあげる」と言われ、結婚以来、不幸にしか慣れてない老妻はあまり幸せの到来にすっかりのぼせ上がって、どこから考えはじめていいのか見当もつかず、神様は「どうした、何も望みはないのか? いやはや欲のない人じゃて」と意地悪くせきたて、動顛の弾みで、いつも我が家の貧しい晩飯のたびに思っていたことが脳裏にひらめき、つい「お隣さんのように、晩のおかずにソーセージが欲しいなあ」とつまらぬことを呟いてしまった。神様は望みのあまりのちっぽけさに驚いたが、相手が若い女なら親切にアドヴァイスもしたが、相手が老婆ゆえさっさとすまして帰ろうと思い、「合点、たやすいこと」と早速、ソーセージを一本、テーブルの上に出してくれ、「祝福された夫婦よ。一番目の願いは聞き届けたぞ」と、厳かに、しかし、どこか恩着せがましくおっしゃった。そばにいた亭主は、以前から妻を馬鹿だと思っていたが、これほど馬鹿なのか大きに驚き、また自分が考えていた三つの願いが先を越され、邪魔されたことに怒りが爆発した。夫の三つの願いとは、「金」と「女」と「長寿」で、三つ目の「長寿」はやめて「妻即死」にしようかなとも迷い、また「女を頼む」というところが神様の手前、言い出しにくく、なんと切り出そうかと思案に耽っていた矢先に、女房に貴重な願いの権利を勝手に使われてしまい、はなはだ逆上した。「一体何ですか、ソーセージなんか頼んじゃったりして。お前が浅はかなのは知っていたけれど、こんな馬鹿とは知らなかった。いやだ、いやだ、馬鹿な女と一緒になるもんじゃありませんね。せっかくお前と私が末永く幸せになるために、あれを頼むのがいいのか、これを頼むのがいいのかと思案をしていたのに」とあくまで内実を隠して善人めかしたことを平然と言い、「私の苦心も知らず、ソーセージ1本願うなんて。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。こんな馬鹿とわかってりゃ一緒になるんじゃなかった。結婚前にお前の母親に会ったら間が抜けた顔をしていたから、その娘も馬鹿なのかな、と思っていたらその通りだった」とくどくどと文句を言い、妻も最初は失敗したと思ってしょげていたが、母親まで引出されて罵られて、頭に血が上り、「なによ、生活をあたしに頼りきって、おかずのソーセージさえ買えないあなたがいけないないんじゃないの。着るものだって結婚してからセーター一枚買ってくれない。この甲斐性なし、無能力者、インポテンツ、カス」とののしり、夫は「甲斐性なし」などの罵言は常日頃妻から言われているのでなんとも感じなかったが、「カス」が引っかかった。子供の頃から親や先生に「カス」と言われ続け、この単語には妙に敏感となっており、更に逆上し、「なにーっ。お前が頼んだソーセージのおかげで、金か女か長生きか、どれかひとつは諦めなきゃいけなくなったじゃないか」と思わず本心をもらしてしまったが気にもとめず、「こんなソーセージはお前の団子っ鼻にくっついてしまえばいいんだ」と怒鳴り、それを聞いて神様、変な願いだな、案外シュールな男じゃないか、とは思ったけれど、願われたから仕方ないので、「それでは実現します」と謹厳におっしゃって、ソーセージは女房の鼻へぶら下がった。亭主は、いい気味だと思って薄笑いを浮かべて見ていたが、妻は鼻先でぶらぶらしてるソーセージを取ろうと力いっぱい引っ張っても取れない。鏡で見てみると、赤い鼻に赤いソーセージが連結していて我が顔ながら気味が悪くなり、「いやーっ、どうしてくれるのよ。こんなんじゃ恥ずかしくて人前に出られないわ。あなたのせいよ、あなたのせいよ」と泣き喚き出し、亭主はさすがにやりすぎたか、と反省し、慰めようとして、「お前は無学ゆえ、知らないだろうが、深海にはチョウチンアンコウという魚がいて、鼻先になにかソーセージのようなものをぶら下げて、えさと勘違いをして寄ってくる魚をぱくっと食べてしまうそうだ。これは災難ではない、チャンスと思うと良い。逆転の発想が大事です。お前もチョウチンアンコウの戦術を使って...」、「使ってどうするのよ? え? 腹を減らして近寄ってくる子供たちを食べちゃえとでも言うの? あんまり馬鹿にしないでよ。そんならいい。明日から私はスーパーのパートも中華食堂の洗い物にも行きませんからね。恥ずかしくって、誰が行けますか? そうしたらもうお金ははいってこないから、あなたなんかもう食べ物はありませんからね」、泣きながら妻は開き直る。無能力者で、妻にたかって生きてきた亭主としては、妻が働きに行かないことは大変困る。自分が飢え死をしてしまう。この際、仕方がない、チキショウ、天道是か非か、断腸の思いだ、などといろいろなことを口走りながら、「神様、妻の鼻先のソーセージが消えますように」と願うと、神様、「分かった。消します。しかし、ソーセージを出して、鼻につけて、そして消せ、とは、欲のない人たちだな。幸いあれ、天国は汝らのためにある」とかいい加減に感想を述べ、ソーセージを消して自らも姿も消した。
ということからも分かるように、願いも三つが通り相場である。

オーストラリアでの話だが、願いは一つだけという場合もある。
ふたりの男がボートに乗っているうち、沖に流され、何日もたち、水一滴も飲めず喉が渇いてしょうがない。もう死んでしまうのかと最後の祈りを唱えていると神様が現れ、「願いをひとつだけ聞いてやるぞ」という。ひとりの男が喜んで、「それではこの海の水を、つめたーい生ビールに変えてください」と願うと、ボートの周りは水平線まで泡立った香りの高い生ビールに変わった。「神様、ありがとう。助かったぞ」と男が叫ぶと、もうひとりの男がたしなめた、「おいおい、どうするんだよ、これからは小便をボートの中にしなくてはならないぞ」。
年長の諸君は、ちあきなおみに「四つのお願い」という、みっつ以上の願いの歌があったはず、と反論があるかもしれない。私もその歌なら知っている。嫌いではないが淫靡な歌だ。さて願いの数だが、「一つ 優しくキスして、 二つ こっそり教えて、三つ あなたの好きなこと、四つ そのまま私にしてね」であるが、三つ目は平叙文であって、祈願文になってない事がわかる。この歌の願いの正味は三つである。

質問にしろ、願いにしろ三つが最大限であることは古今世界共通の通念といっていい。しかるに、無限の質問・願いを許しているところがある。みどりの窓口である。
4つか5つの窓口があるのだが、どこの窓口も長っ話で順番が進まない。話というか質問である。「京都発の最終は何時ですか?」「東京行きはないのですか?」「名古屋行きだと、東京に行きませんよね?」「東京行きは名古屋に止まるのですか?」「名古屋から東京にはどうやっていくのですか?」「この席から富士山が見えますか?」「見えないときは席を替わっていいのですか?」「だけどその日、晴れますかね?」「車内販売はありますか?」「駅弁を買っている時間はありますか?」「名古屋駅の駅弁と米原駅の駅弁とどっちがうまいですか?」「自由席でも座れますか?」「自由席がいっぱいの時は指定席に変わっていいのですか?」「往復で買うと安くなりますか?」「チケット屋で買ったほうが安あがりですか?」「マイルは貯まりますか?」「女性のとなりがいいんすけど?」「今の時期、京都と奈良とどっちがいいですか?」「北陸新幹線で金沢に行くのと北海道新幹線で函館に行くのと迷っているのですが?」(行き先ぐらい自分で決めて欲しい)
「函館経由で広島に行きたいんだけど、1日で行けますか?」、スマホも出てくる、「(係員に)あっ、待ってて。ヨッシーに確認するから。(電話をする)ヨッシー? アタシ。いま駅なんだけど、秋田って長野新幹線だよね?え? 上越新幹線? ウソー、長野新幹線だと思ってたー。秋田って上越新幹線なんだー。いやだー、どうしよう?......でも、電話いったん切るね。後ろで待ってるジジーがさ、こわい顔をしてるから(私のこと)」、掛け合いもある、《若い男》「帰りの切符は7時14分発で2枚」《若い女》「えー、そんな早く帰るの。最終にしようよ。せっかくだから京都のおいしいもの食べたい」《若い男》「おれ、次の日、早出だからさ、早く寝たいしさ」《若い女》「えーっ、たまに旅行行くんだから、楽しまなきゃ。(係員に)最終に替えてください」《若い男》「ダメだよーっ。(係員に)7時14分発でいいですからね」《若い女》「最終っ」....。
 若者も質問・願い事のおおい人は沢山いるが、人の属性で言うと70代老夫婦、それに60代婦人3人組、4人組などが、最も多く、果てしなく質問を続ける。彼らは質問の数が多いばかりでなく、ひとつの質問に時間もたっぷりとかける。母音部分を長く発声するので文全体を唱えるのも時間がかかり、文節間も十分に間を空け発声し、間というより突然の、不可解な沈黙ともなり、他に「つかえ」、「どもり」、「繰り返し」、「つぶやき」、「咳」もしくは「咳払い」「痰のからみ」も多用するので、質問は大蔵経のように長くなり、マクベスの魔女であれば処刑も辞さないであろうが、相手が天使のようなJRの係員だから、いつまでも終わらない。
このような無制限の質問特権が使用される頻度は、駅でいうと上野駅のみどりの窓口が断然多く、逆に東京駅日本橋口みどりの窓口では、せっかちなビジネスマンの利用が多いせいかせっかくの無制限質問特権が十分に活用されているとは言えない。
 私は上野駅みどりの窓口で、宇都宮行きの新幹線のチケットを買うのに34分かかったことがあった。「上野から宇都宮まで120kmを30分でいけるのに、上野駅の構内・みどりの窓口で20m進むのにそれ以上かかるのは疑問に思いませんか? せっかく技術の粋を尽くして高速鉄道を作っているのに、みどりの窓口で相殺しているように思われます」と天使のような係員(女)に話しかけたら、「お年寄りを大事にするのは当たり前のことです」と、私に対しては鬼のような面貌で返答があった。「例えば、コンシェルジェを作って相談や質問はそこで受付けるとかしてはいかがですか? でないと時間を短縮して他人に迷惑をかけないように、前もって調べてきた人間に対して不公平だから」と建設的な提案をしたが、「お年寄りになれば、若い人のようにはいかないのですから、ご理解をください」とのこと。時間の短縮では公平性は担保されそうでもないので、こちらもたくさん質問をして公平性を保とうとしたが、天使に尋ねることは何も思いつかなかった。

 


 

独楽吟

                                                         有川雄二郎      
たのしみは 妻子(めこ)睦まじくうち集い 頭ならべて物をくふ時

たのしみは 珍しき書(ふみ)人に借り 始め一ひらひろげたる時

たのしみは 心にうかぶはかなごと 思ひ続けて煙草吸ふとき

たのしみは 朝おきいでて昨日まで 無かりし花の咲ける見る時

たのしみは まれに魚(うお)煮て兒等(こら)皆が うましうましといひて食ふ時

たのしみは 錢なくなりてわびをるに 人の来りて錢くれし時

たのしみは 昼寝目ざむる枕べに ことことと湯の煮えてある時

たのしみは 機(はた)おりたてゝ新しき ころもを縫ひて妻が着する時

たのしみは 戎夷(えみし)よろこぶ世の中に 皇國(みくに)忘れぬ人を見るとき

  江戸末期の福井の人、橘曙覧の歌だ。歌が釀出する情景とその心象にファンも多い。私も好きだ。鋭い感受性があり、普段の生活の一こまに心を動かされ、歌い上げ、それでいて静かに送る人生への態度は変わらない。なかなかこうはいかない。
越前の太守・松平春嶽は橘宅を訪れた。崩れかけた小屋に筵を敷き、その筵には虱が這い、数冊の書物に古い文机があるだけ。その貧しさに呆れ驚き、しかしその人柄、学識、国を思う気魄に打たれ、それに引き換え大名たる自分は志操、甚だ劣る、恥ずべしと、その訪問記にある。風格のある誠実な文章だが、これも岩波文庫の『橘曙覧全歌集』にある。死ぬ前に一度、読むべし。

 

  私も橘曙覧のように詠ってみたい。曙覧のように、さらさらと、すずやかに、ほのぼのと思いを陳べたいものである。曙覧とは、時代や暮らしに差があるが、さはあれ、ともに生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせて見たいのである。ここで彼我を考量するに、彼は清らかに我は濁り、彼はつつましく我は貪り、彼は家族を慈しみ我は家族に捨てられ、彼は静かに我は騒がしく、彼は愛し我は恨む、そのへんで多少人格が異なるところはあるが、そこは歌の道、万葉に貴賎なし、心を振りぼり言の葉を並べん、聞け、老残の声。

 

零細企業主 独楽吟

 


たのしみは おそるおそるの見積もりを 客が黙って受け取りし時

 

  (自注:ほっとした気持ちは何事にも代え難い。やがて、もっと高くしておけば良かったと、悔いが生じてくるのだが)

 

たのしみは 社員にいやみを言い続け 赤字の憂さを晴らしたる時

 

  (自注:社員は不満かもしれないが、これも立派なご奉公なのだ)

たのしみは パーティの後の残り物 気兼ねもせずに好きに食ふ時

 


   (自注:ボーイがどうぞ、と勧めてくれるが、ホテルによってはさっさと片付けてしまうころもある。プロトコールがなってない) 

たのしみは 自販機の缶を取り出して 釣りが100円多く出るとき

 

   (自注:まれに数字が4つ揃って、もう一本もらえる時がある。もっと嬉しい)

 

たのしみは 飲みやの婆つくづくと 「いいとこあるね」と言われたる時

 

    (自注:ババーに言われて嬉しいか?と言われれば、嬉しいと率直に言おう。ほかに、私に関心を持ってくれる人がいないのだ)

 

たのしみは 携帯持たず出張し 誰にも追われず列車に乗る時 

 

    (自注:20年前はポケベルだった、40年前は公衆電話しかなかった、われわれの世代は)

 

たのしみは 馬鹿な社員がたまさかに 大きな話をまとめたる時

 

    (自注:しかし、次からはまた馬鹿に戻る。不思議だ)

 

たのしみは 社員のいない昼休み エロいサイトをひとり見る時

 

    (自注:楽しんでいる最中に、報告をしに私の机の横に来る社員がいる。「ダメだ、いま近くに来ちゃ。5m離れて報告しなさい」と無作法を注意するのも社長の役目)

 

 

たのしみは 二重に払った相手から これは多いと金戻る時
 

 

   (自注:そんなことが2,3度あって、日本人はいいなー、と思う。しかし、私が二重に払われた経験はない。不思議だ。そうなったとき、私は返すだろうか? 深い心の淵だ)

 

たのしみは 大きな会社の部長とて 威張りし友が定年の時   

 

   
    (自注:もう威張れないぞ。しかし彼の企業年金が私の月給より多いのに苛立ちを覚える)

 

たのしみは 嫌な客との酒席にて 「早めに帰る」と念押さるる時

 

    (自注:そんなときは嬉しくなって話が弾み、かえって長居をされる時もあるから気をつけなくては)

 

 

 


 

正しい偽善のあり方

有川雄二郎

偽善は、緻密な構成に基づいてなされなければならない。

粗雑な偽善は、人の憤激を呼ぶ。これは、偽善家の私が断言するのだから間違いはない。

今、偽善家の私、といったけれど、私以外の人も多かれ少なかれ偽善家であると思う。なぜならば神様は人間を造る時に、「偽善」と「ばか」をこね合わせて作ったからである。普通の人は、それが程よくこきまぜられているのだが、時折、一方に片寄る人もあるのはよく知られた事実である。それはともかく、「ばか」はlet it be,すなわち地のままでよいのだが、偽善は緻密であることの労を惜しんではならない。

例えば、偉い人の自慢話・不幸な人の愚痴話など聞きたくもない話に対して、善人を装う私は、強く関心を持つ聞き手のフリをするために、緻密な構成をもってこれに対応する。話手の目を見つめてそらさず、話の合間に「はーはー」と相槌を打ち、熱が入り話のサビに来た時には「ほーっ」とか「へーっ」とか感嘆の声を上げ、駄洒落が混じった時はすかさず「ふふっ」、下ネタに際しては「ひひひ」とタイミングよくハ行を活用して反応し(「あーあー」、「うーうー」、「おー」などア行活用は横柄に聞こえる)、しかし単調に堕しないために、「そのとき相手はどんな顔をしてましたか?」などの質問も交え、たまには「いやいや、そんなことをしたらまずいのではありませんか」と反論に出て、相手が少し気色ばみ、「まずくないんだよ。そのために俺はこうしてああして……」と詳しく自分を正当化するので、そこで、膝に手を打ち、「あーなるほど、そうか」とつぶやき、「よっく分かりました。勉強になりました」と晴れ晴れと述べ、改めて尊敬の眼差しをもって相手に向かう。

偽善と言われるからには、そのくらいのことはしないといけないのだ。

ところが、世に、手抜き偽善が有り、看過できないのでここで注意を促したい。一例はカード会社である。彼らは「個人情報はきわめて大事にする」と、さも客思いの事を言っているが、これが粗雑な偽善であるのだ。

カード会社から留守電が有り、「お話したいことがあるので、折り返し、電話をください」とのこと。内容は聞かなくても分かっている、請求額の引き落としができない、ということに違いない。残高がないのだから当たり前なのだが、一応相手の顔を立て、電話をしてみる。「さっきそちらから電話を頂いた有川ですが、ご用件は?」と聞くと、「有川様ですね。ご本人確認をします。フルネームをおっしゃってください」と言うので、「有川雄二郎」と答えると、「それでは住所をおっしゃってください」、住所を述べると、今度は、「登録された電話番号は?」と聞かれ、さらに、生年月日、登録された銀行口座など、警察の容疑者取り調べのように質問される。「そちらから電話をかけてきて、私は有川と名乗って折り返ししているのだから、そこまで不要でしょう」と苦情を申し立てると、「いえ、万一、違う方にあなたの個人情報を漏らすことになってはいけませんから。これは当社のコンプライアンスにも規定されております」と、胸を張って、答える。

しからばカード会社に問う。これで有川雄二郎本人とあなたには分かったかも知れないが、こちらはあなたが本当にカード会社社員であるかどうか分からない。誰かが偽の問い合わせ電話を私にかけてきて、私の個人情報を聞き出そうとしているのかも知れない。こちらもカード会社社員であることの本人確認をしたい。電話に出たカード会社社員の、フルネーム、住所、電話番号、生年月日、銀行口座は当然として(こちらが言わされたので、対抗上言ってもらうが)、これだけではこちらからの本人確認ができないから、あらかじめ定めておいた合言葉を言ってもらう必要があるとは思わないか。そんなに私の個人情報を守ってくれたいなら、まず、自分がまさしくカード会社社員であるということを証明してから、私と話を始めるのは当然ではないか?

重ねてカード会社に問う。私の個人情報を大事にすると言い、私と電話で話をするだけでもしつこく本人確認をしなければ内容を話さないくせに、カードの請求書の郵便を書留でもなく、配達証明便でもなく、普通郵便で送るのは何事か。会社では、誰が受け取り、誰が開封するかもわからない。また自宅マンションの郵便受けでも、誰が私のポストを開けて見てしまうか分からない。請求書は個人情報の塊である。若い頃、妻が私宛のカード会社の請求書を開封し、デパート婦人服売り場で3万円のブラウスを買ったようだが、誰に買ったのだ? 私は貰ってない、ブラウスどころか歯ブラシ1本買ってもらったことがない(歯ブラシは買ってあげたこともあったような気がしたが)と喚きたてられ、殺人未遂が起こされたことがあった。さほどに個人情報は大事なのだ。本来なら、書留どころか、カード会社社員が直接持参すべきものなのだ。それを粗雑に普通郵便で済ませるのは、どういうことか?

三たびカード会社に問う。時に、カード会社からの郵便で、ユニセフへの寄付を求める手紙が送ってこられ、カード会社のくせに寄付とは猪口才な、しかし、他人に寄付を進める以上、おめーも寄付しているのだろうな、あなたの会社はいくら寄付しているのかと電話で問い合わせると、言え、私どもは代行してユニセフさんの勧誘状を送っているだけです。内容については一切、関知してません、という。カード会社が自分の名前で会員に手紙を出し、その内容は知らないという無責任さ、しかも悲惨な人たちに善意の寄付を募る手紙を出しておいて、自分は寄付もせず、その手紙を出すことで金を儲ける。その不実な心の内はそれとして、その行為は名簿を売っているのと同じことだろう、個人情報の厳守の見地からも糺したい。

 

粗雑な偽善で言えば、ビジネスホテルも人後に落ちない。

最近、環境保全のためと称し、「2泊以上の場合、シーツ布団などを洗濯しない。環境のためだから理解してくれ」というところが多くなってきている。歯ブラシやカミソリを支給しない、また石鹸も最初の支給のみ、というところも多い(椿山荘ホテルはビジネスホテルではないが、連泊しても新しく替えてくれない)。

「環境のため」というのは、洗濯すると電力を消費し、これはCO2を排出することに繋がるという論理だ。フロントにも本社にも確かめた、彼らのつけた理屈であるこれが欲を偽善で覆い隠していることは、三尺の童子といえども知れたことだ。寝具の洗濯代といえば、500円以上はするだろう。ホテルは、これを払うのが惜しいのだ。惜しいから、とはっきり言えば可愛いのだが、「環境」のためと称する。粗雑な偽善の修辞の好例である。

洗濯代500円のうち、電気代にあてられるのは、せいぜい10円か20円である。あとの人件費、洗剤費、工場償却費、運賃などの方が、よほど大きな部分を占めている。それにエネルギーを消費するなら、客室のテレビ、エアコン、浴槽のお湯の方がよほど大きい。テレビ、エアコン、お湯の使用を禁止したほうが、自然により優しくなる。ついでに館内の灯火を取り外し、寝袋持参の客のみ泊める、そこまでして初めて環境にやさしいと言えるのではないか? それに、洗濯機電気代などのみみっちい話よりも、そもそも旅行そのもの方がCO2を大量に輩出し環境を破壊する。ホテルまで、飛行機で来るにしろ、新幹線で来るにしろ、車で来るにしろ、莫大なCO2排出を伴う。緊急な要件、例えば親が危篤とか、自分が死ぬためだとか、以外の人間は泊めてはならないという方針が、環境問題を憂慮するホテルとしての筋が通っている。

 

また、ホテルの偽善ぶりがさらに強調されるのは、強引につけた環境保全理屈で儲けた500円の洗濯代を、自分で取ってしまうことにある。シーツを洗わないことで、不便をかけるのは客なのだから、従来は洗っていたのだから、浮いた500円は客に還元すべきである。それを自分で持って行ってしまうというのは、アコギな話である。Wホテルなどでは、誇らしげに、年間50万本歯ブラシを削減した、20万本カミソリを減らした、などとその成果を掲示していたのだが、客の負担によってもたらせた推定1億円あまり。さすがに近年になって、歯ブラシ・カミソリを客が辞退すると100円分ポイントで支給することになったが、5泊分たまらないとポイントは行使できない。5泊以上宿泊する客、かつポイントカードを持ち歩く客がどれほどいるのか? 推定仕入れ価格200円を個別に値引いた方が潔い。

自動車やら家電にあるように、客に対して従来と同程度のサービスが前提で、省資源・省エネルギーを開発したと言うなら話はわかるけれど、ただサービスを低下させて、値段は変わらず、浮いた金は自分が取る、この粗雑な理屈、筋の通らぬ話は恐れ入る。これがまかり通るのなら、新車に中古タイヤを履かせて省資源と称して従来の価格で売ればいいし、牛丼屋も省資源、環境のため牛肉もコメも半分にすることもまかり通る理屈だ。私が、社員の給与を半減して、「金を使えば、必ず、資源を浪費するか、環境を悪くするから」と言って、環境・資源を守るため、私はいいことをしていますと、言うようなものだ。

私は、以上の例を他山の石とし、緻密に論理を構成している。

社員の待遇とか、パートナーへの親切な応対とか、妻への感謝とか、私の見かけ上の善人ぶりはいささかの破綻もなく、一点の疑いも持たれずに、多くの感謝をいただいている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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